【第36話:ありがとうございました、が言えたなら】
「ありがとう」や「これが好き」
そんな言葉が、心から出てくるまでには
ほんの少しだけ、勇気が必要なのかもしれません。
【第4章】この灯を、あなたと(12話目)
「こちらで、ひと缶お包みいたしますね」
店員の手元で、銀色の缶が丁寧に紙に包まれていく。
さらさらと響くその音が、るなにはどこか心地よかった。
彼はるなの隣で、静かに様子を見守っていた。
何も言わないけれど、背中越しに伝わってくる安心感がある。
「……すこし、甘い香りって、落ち着きますね」
るながぽつりとこぼすと、彼は微笑みを浮かべたようだった。
「はい。香りには気持ちをほどく力がありますから」
そう言われると、なんだか少し照れくさかった。
けれど、それでも自分で選んだものを、自分で「好き」と言えたことが、
るなにはちゃんと嬉しかった。
「お会計、失礼いたしますね」
店員の声に、るなは少しだけ肩を伸ばす。
カウンターに差し出されたトレイには、整った金額の表示。
るなは財布を取り出すと、小銭をゆっくり数えた。
手がほんの少しだけ震えていた。
小銭が指の間で音を立てるたびに、
店内の静けさに自分の動作だけが浮いているような気がして、
息をひとつ、そっと整える。
けれど、それでも――
彼の手を借りることなく、きちんと自分で支払うことができた。
「ありがとうございました。またぜひ、お越しくださいね」
包みを受け取ったとき、店員の声がやさしく響いた。
るなは、その言葉を受け止めるように深くうなずいたあと、
ほんの少し迷いながらも、小さな声で返した。
「……ありがとうございました」
その言葉が、ちゃんと口から出たことが、
なぜだか胸の奥でじんと響いていた。
扉を押して外に出ると、
先ほどより光が強くなっていた。
空の色は少しだけ青みを増していて、
雨上がりの風が頬にやさしく触れる。
「お疲れ様でした」
彼が静かに言う。
それだけの言葉なのに、
るなはほんのすこしだけ、胸を張って歩き出せた。
その歩幅は、さっきよりもほんの少しだけ、
彼に近づいていた気がした。
ちゃんと選んで、ちゃんと声にして、
ほんのすこし背筋を伸ばして外に出る。
それだけのことで、世界が少しやさしく見えることがあります。
次回も、0:00と0:10に更新いたします。




