【第33話:街の匂いを思い出す】
街の音、風の匂い、人の気配。
すこしずつ、自分の輪郭を思い出すように歩く朝。
今日は、そんな静かな時間を描きました。
【第4章】この灯を、あなたと(9話目)
信号の音が、遠くから聞こえた。
その音に合わせるように、小さな足音や自転車のブレーキ音が混じってくる。
るなは、街のざわめきをひとつひとつ思い出すように耳を澄ませていた。
外を歩くのは久しぶりだった。
季節がひとつ変わっても、街並みは変わっていない。
けれど、自分の中では何もかもが少しずつ違って見えていた。
ビルの隙間から風が抜けていく。
雨の匂いに混じって、コンクリートの温度と花の香りが漂っていた。
どれも、どこか懐かしくて、けれど少しだけ遠い。
「……人、多いですね」
ぽつりとこぼしたその声は、
自分でも驚くくらい小さく、けれど確かなものだった。
彼はその言葉に返事をせず、ただ少しだけ歩調を緩めた。
前を歩く人と距離をとるように、自然と横に広がる。
それが、るなにとっては何よりもありがたかった。
歩くことはできても、心はまだ慣れていなかった。
通り過ぎていく人々の会話や笑い声。
ふとした視線やすれ違う肩先。
それらすべてが、自分の輪郭を溶かしてしまいそうで、少しだけ怖かった。
けれど、隣にいる彼は変わらなかった。
何も言わず、何も急かさず、
ただ同じ速度で、同じ道を歩いてくれていた。
「ここ、通ったことありましたっけ……?」
るながそう問いかけると、彼はゆっくりと横を向いた。
「はい。三ヶ月ほど前、お嬢様とこちらの通りを歩きました。
春先でしたので、もう少し肌寒かったかと」
彼の記憶の中に、自分との時間がちゃんと刻まれていることが、
なぜだか嬉しかった。
そのときの空気や陽射しが、少しだけ心の中に戻ってくる。
「……そっか。あのときは……」
最後まで言葉にはしなかったけれど、
るなの表情は、少しだけ和らいでいた。
信号が青に変わる。
横断歩道の白線が、やけにまぶしく見えた。
彼が一歩進む。
るなも、ほんの少し遅れて、そのあとに続いた。
その足取りは、今朝より少しだけ軽かった。
外に出るだけで、心がゆらぐときもあるけれど、
となりを歩いてくれる人がいるだけで、
世界がすこしやさしく見える気がします。




