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『背中越しの灯火(ひ)』   作者: ふぃりす
【第4章】この灯を、あなたと
33/111

【第33話:街の匂いを思い出す】

街の音、風の匂い、人の気配。

すこしずつ、自分の輪郭を思い出すように歩く朝。

今日は、そんな静かな時間を描きました。

【第4章】この灯を、あなたと(9話目)


信号の音が、遠くから聞こえた。

その音に合わせるように、小さな足音や自転車のブレーキ音が混じってくる。

るなは、街のざわめきをひとつひとつ思い出すように耳を澄ませていた。


外を歩くのは久しぶりだった。

季節がひとつ変わっても、街並みは変わっていない。

けれど、自分の中では何もかもが少しずつ違って見えていた。


ビルの隙間から風が抜けていく。

雨の匂いに混じって、コンクリートの温度と花の香りが漂っていた。

どれも、どこか懐かしくて、けれど少しだけ遠い。


「……人、多いですね」


ぽつりとこぼしたその声は、

自分でも驚くくらい小さく、けれど確かなものだった。


彼はその言葉に返事をせず、ただ少しだけ歩調を緩めた。

前を歩く人と距離をとるように、自然と横に広がる。

それが、るなにとっては何よりもありがたかった。


歩くことはできても、心はまだ慣れていなかった。

通り過ぎていく人々の会話や笑い声。

ふとした視線やすれ違う肩先。

それらすべてが、自分の輪郭を溶かしてしまいそうで、少しだけ怖かった。


けれど、隣にいる彼は変わらなかった。

何も言わず、何も急かさず、

ただ同じ速度で、同じ道を歩いてくれていた。


「ここ、通ったことありましたっけ……?」


るながそう問いかけると、彼はゆっくりと横を向いた。


「はい。三ヶ月ほど前、お嬢様とこちらの通りを歩きました。

 春先でしたので、もう少し肌寒かったかと」


彼の記憶の中に、自分との時間がちゃんと刻まれていることが、

なぜだか嬉しかった。

そのときの空気や陽射しが、少しだけ心の中に戻ってくる。


「……そっか。あのときは……」


最後まで言葉にはしなかったけれど、

るなの表情は、少しだけ和らいでいた。


信号が青に変わる。

横断歩道の白線が、やけにまぶしく見えた。


彼が一歩進む。

るなも、ほんの少し遅れて、そのあとに続いた。

その足取りは、今朝より少しだけ軽かった。

外に出るだけで、心がゆらぐときもあるけれど、

となりを歩いてくれる人がいるだけで、

世界がすこしやさしく見える気がします。

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