【第30話:扉の前、背中越しに】
支度の途中で、
言葉にできない感情がふと顔を出すことがあります。
それでも、扉の前で立ち止まらずにいられる朝を、
静かに描いてみました。
【第4章】この灯を、あなたと(6話目)
靴音がひとつ、廊下に響いた。
その音は控えめで、けれどるなの胸の奥をわずかに揺らした。
出かけると決めたはずなのに、
玄関の前に立った途端、少しだけ足が止まる。
「お嬢様、こちらにございます」
差し出されたのは、淡いグレーのコートだった。
るながいつも外に出る時に選んでいたもの。
何も言わなくても、ちゃんと覚えていてくれたことが、うれしかった。
「……ありがとう」
それだけを返して、ゆっくりと腕を通す。
袖の中が、ひんやりとしている。
まだ、春には遠い。
彼はるなの背中に回って、襟元を整えてくれた。
その手つきはやわらかく、どこまでも丁寧だった。
言葉はなかった。
でも、必要以上に近づいてこないその距離感が、
今は少しだけ、さみしく思えた。
「靴は、こちらでよろしいでしょうか」
そっと差し出されたのは、落ち着いた黒のパンプス。
最近はあまり履いていなかったけれど、彼の選んだそれは、
るな自身が「きちんと外に出るときに履くもの」だった。
「うん……それで、いいです」
視線を落としながらそう言った自分の声が、
少しだけ揺れていたのを、自分でも感じた。
彼は何も言わず、ただ一歩引いて待っていた。
扉の横に立つ姿は、変わらず静かで、どこか遠い。
るなはゆっくりと足を入れ、パンプスのかかとを合わせる。
その音が、小さくコツンと鳴った。
それだけで、何かが決まったような気がした。
「……準備、できました」
言葉は小さかったけれど、確かに届いた。
彼が軽く頭を下げる。
「かしこまりました。それでは、まいりましょう」
その言葉に背中を押されるように、るなは扉の方を向く。
ドアノブに手をかける直前、
彼女はほんの少しだけ後ろを振り返った。
そこには、変わらず穏やかな彼の表情。
けれど、やっぱり“近くて遠い”その距離に、
胸の奥が、きゅっと鳴った気がした。
それでも、大丈夫。
そう言い聞かせるように、るなは扉を開けた。
近くにいるはずなのに、少し遠く感じる背中。
それでも、一緒に出かけるという“当たり前”が、
ふたりの距離を少しずつ変えていくような気がしています。
次回も0:00と0:10に更新致します。




