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『背中越しの灯火(ひ)』   作者: ふぃりす
【第4章】この灯を、あなたと
30/111

【第30話:扉の前、背中越しに】

支度の途中で、

言葉にできない感情がふと顔を出すことがあります。

それでも、扉の前で立ち止まらずにいられる朝を、

静かに描いてみました。

【第4章】この灯を、あなたと(6話目)


靴音がひとつ、廊下に響いた。

その音は控えめで、けれどるなの胸の奥をわずかに揺らした。


出かけると決めたはずなのに、

玄関の前に立った途端、少しだけ足が止まる。


「お嬢様、こちらにございます」


差し出されたのは、淡いグレーのコートだった。

るながいつも外に出る時に選んでいたもの。

何も言わなくても、ちゃんと覚えていてくれたことが、うれしかった。


「……ありがとう」


それだけを返して、ゆっくりと腕を通す。

袖の中が、ひんやりとしている。

まだ、春には遠い。


彼はるなの背中に回って、襟元を整えてくれた。

その手つきはやわらかく、どこまでも丁寧だった。


言葉はなかった。

でも、必要以上に近づいてこないその距離感が、

今は少しだけ、さみしく思えた。


「靴は、こちらでよろしいでしょうか」


そっと差し出されたのは、落ち着いた黒のパンプス。

最近はあまり履いていなかったけれど、彼の選んだそれは、

るな自身が「きちんと外に出るときに履くもの」だった。


「うん……それで、いいです」


視線を落としながらそう言った自分の声が、

少しだけ揺れていたのを、自分でも感じた。


彼は何も言わず、ただ一歩引いて待っていた。

扉の横に立つ姿は、変わらず静かで、どこか遠い。


るなはゆっくりと足を入れ、パンプスのかかとを合わせる。

その音が、小さくコツンと鳴った。

それだけで、何かが決まったような気がした。


「……準備、できました」


言葉は小さかったけれど、確かに届いた。

彼が軽く頭を下げる。


「かしこまりました。それでは、まいりましょう」


その言葉に背中を押されるように、るなは扉の方を向く。


ドアノブに手をかける直前、

彼女はほんの少しだけ後ろを振り返った。


そこには、変わらず穏やかな彼の表情。

けれど、やっぱり“近くて遠い”その距離に、

胸の奥が、きゅっと鳴った気がした。


それでも、大丈夫。

そう言い聞かせるように、るなは扉を開けた。

近くにいるはずなのに、少し遠く感じる背中。

それでも、一緒に出かけるという“当たり前”が、

ふたりの距離を少しずつ変えていくような気がしています。

次回も0:00と0:10に更新致します。

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