【第29話:近づいてみたくなる朝】
静かな朝の中で、
ふたりの距離はゆっくりと揺れています。
小さな決意が、
そっと心に灯る朝の一場面をお届けします。
【第4章】この灯を、あなたと(5話目)
時計の針が、静かに午前を刻んでいく。
るなはカップを両手で包みながら、あたたかさの抜けていく感覚をぼんやりと見ていた。
今朝は、彼がキッチンで紅茶を淹れてくれた。
「お砂糖は、少しでよろしいでしょうか」
そう訊かれて、小さくうなずいた自分が少しだけ恥ずかしかった。
ふたりきりの朝。
話しかけるべきか、話しかけないままでいいのか。
沈黙のあいだにも、時間だけは確かに進んでいく。
「……午前も、ゆっくり過ぎていきますね」
勇気を出して声にしたのは、それだけだった。
それでも彼は、少しだけ間を置いてから、丁寧にうなずいた。
「はい。昼食のご用意は、いつ頃がよろしいでしょうか」
変わらない口調。変わらない返事。
だけど、そうしてくれること自体が、やっぱり嬉しい。
それでも、どこか物足りなさを感じる自分がいる。
わがままだとわかっている。
でも、せめて。ほんの少しだけでいい。
「今日は何を食べたいですか」って、訊いてくれたら嬉しかったのに――
そんなことを思ってしまった自分に、また苦笑いがこぼれた。
求めるようになったのは、きっと悪いことじゃない。
それだけ、安心できるようになったということだから。
るなは空になったカップをソーサーに戻す。
音は控えめで、でもたしかにそこに存在していた。
「……今日、買い物に行ってもいいですか?」
自分でも驚くくらい自然に口をついて出た言葉に、
彼は、少しだけ目を見開いたようだった。
けれどすぐに、いつも通りの穏やかな声で返してくる。
「かしこまりました。ご希望の時間があれば、仰ってください」
まっすぐな返事だった。
けれどその奥に、ほんの少しだけ“うれしい驚き”が混じっていた気がして、
るなは心の中で、小さくガッツポーズを作った。
何かが変わったわけじゃない。
でも、変わっていくかもしれないと思えた。
そんなふうに思える朝は、少しだけ好きになれそうだった。
言葉は少なくても、確かに伝わることがある。
少しだけ動き出したるなの気持ちが、
次の一歩につながっていきますように。




