【第23話 少しだけ名前を呼べたら】
ただそこに居てくれたこと。
言葉にしなくても灯っていたその存在に、
ほんの少しだけ、名前で触れてみたくなった夜。
第4章の始まりは、るな自身が灯した“はじめての呼びかけ”から。
第4章「この灯を、あなたと」(1話目)
扉の閉まる音が、静かに部屋を包んだ。
るなは小さく肩をすくめる。
灯りはひとつ。夜の底にぽつりと灯った明かりが、静かにそこにあった。
遠くはない。けれど、まだ手が届くほどの距離でもない。
膝に置かれた本を閉じる。
それは、読み終えたからではなく、ふと、行間が見えなくなったから。
目の奥が、じんとする。理由はわからない。けれど、少しだけ胸があたたかい。
「……もう、夜ですね」
ほんの少し前までなら、口にすることもできなかった。
何かを言うことで、何かが崩れてしまいそうで。
けれど今は、話してもいい気がした。
その沈黙のなかに、灯っていた人がいたから。
「ええ。風は残っていますが、雨は止んだようです」
久遠の声は変わらず穏やかだった。
何も変わっていない。けれど、確かにそこにいてくれる。
それだけで、るなは少しだけ顔を上げる。
「……くおん、さん……」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
けれど、震えずに言えた。それが、少しだけ嬉しかった。
呼ばれた名前に、久遠は一瞬だけ目を細めた。
その瞳が何を映していたのか、るなにはわからない。
ただ、静かに――深く頭を下げた。
「はい。お嬢様」
変わらない返事。
でも、たぶんそれでよかったのだと思う。
呼んだこと、届いたかもしれないこと、そこに確かに“自分の変化”があった。
目を伏せたまま、カップに手を伸ばす。
もう紅茶はぬるくなっていた。
それでも不思議と、手のひらは冷たくなかった。
「……あの、紅茶……あとで入れ直します」
久遠の声が近づく。
その距離が、今夜はほんの少しだけ、近く感じられた。
窓の外では、まだ風が傘を揺らしている。
けれどこの部屋の中には、静かな灯がともっていた。
──名前を呼べたことが、ほんの少しだけ、
あの背中に向けて灯せた灯火になった気がした。
変わらない返事でも、それでよかった。
名前を呼べたことが、自分にとっての小さな確信だった。
背中越しに置いたひとつの灯火が、
ふたりの距離を少しだけ、あたためてくれる。
次回も、静かな夜のつづきをお届けします。
ここまで読んでくれた方、ありがとう。