【第111話:窓辺へ、届かない指先】
少しずつ、けれど確かに動き出そうとするるな。
光までの距離はまだ遠くても、そこへ向かうための小さな一歩が描かれます。
本日もお読みいただきありがとうございます。
【第7章】こころ、沈みゆく底で(8話目)
薄く開いたカーテンの向こうで、光が少し強くなってきていた。
時間はもう昼に近いのだろう。
布団の中でるなは目を開けたまま、天井の模様をぼんやりと追っていた。
指先はまだ、朝に触れた冷たい空気の感触を覚えている。
扉の外からは、静かな物音。
食器が重なるかすかな音や、遠くで湯が沸く気配がする。
その一つひとつが、部屋の中に小さな波紋のように広がっていく。
(…今日は、もう少しだけ)
心の奥でそんな声がした。
けれど、体は思うようには動かない。
重たく沈むような感覚が、胸のあたりにまとわりついて離れない。
まるで水底で、光を見上げているかのようだった。
「るなさん」
呼びかける明人の声が、また扉越しに届いた。
その響きに、わずかに呼吸が深くなる。
返事はしない。けれど、聞こえていることだけは伝わってほしいと願った。
布団の端を押し、片腕をそっと伸ばす。
視線の先には窓辺がある。
ほんの数歩――それだけの距離が、果てしなく遠く思えた。
それでも、少しずつ身体を起こしてみる。
背中に走る小さな痛みと、急に増えた心臓の鼓動。
膝の上で両手を重ね、深呼吸を一度。
窓辺に行くことはできなかった。
けれど、座り込んだままカーテンの隙間を見つめると、
外の光がほんの少し、頬に触れた。
その温もりは淡く、それでも確かに存在していた。
(…ここまで、来られた)
それだけで胸の奥がふっと温まる。
足元にはまだ、布団の柔らかな重みが残っている。
その重みごと抱きしめながら、しばらく光の色を見つめた。
光の向こうにある外の景色を、ほんの少しだけ想像してみる。
街路樹の緑、ゆっくり流れる雲――それらは今も、きっと変わらずそこにある。
ふと、扉の外で足音が止まる。
ノックはない。ただ、そこに明人がいる気配だけが残る。
言葉も音も交わさない沈黙の中で、るなは目を閉じた。
もし扉を開ければ、光よりも先に彼の姿が飛び込んでくるだろう。
けれど今日は、その想像だけで十分だった。
外では、子どもたちの笑い声が通り過ぎていく。
昼の光は、朝よりも少し眩しくて、少し暖かかった。
その温もりは、ほんのわずかだが確かに胸の奥に留まり、
固く閉ざされた心の底に、静かな波紋を広げていった。
窓辺に届かなくても、そこへ「向かおう」としたこと。
それは彼女にとって、大きな意味を持つ一歩でした。
次回は、その光を前にしたるなの胸の内を、さらに深くお届けします。