【第110話:手を伸ばす朝、わずかな一歩】
今日は、るなが布団の中で「ほんの少しだけ手を伸ばす」
その小さな行動と、
明人の静かな見守りを丁寧に描きました。
朝から昼へ――止まった時間の中で、
微かな前進の芽生えを静かに綴っています。
【第7章】こころ、沈みゆく底で(7話目)
窓の外では、鳥たちが朝の光の中を飛び交っている。
カーテンの隙間から差し込む淡い光が、るなの布団の端を照らしていた。
目覚めてからずいぶん時間が経った気がするけれど、
るなはまだ、ほとんど身動きもせずにいた。
部屋の静けさは、どこか守られているようでもあり、
同時に世界から切り離されているようでもあった。
手のひらでシーツを握ると、その感触だけが確かで、
心の奥に小さな焦りが湧くけれど、
すぐにその波も静かに引いていく。
「るなさん、ご無理なさいませんように。何かございましたら、いつでもお呼びくださいませ」
明人の落ち着いた声が、やさしく扉越しに響いた。
その響きは、強く背中を押すものではなく、
ただそこに在り続けてくれる静かな支えだった。
その声が遠ざかったあとも、しばらく天井を見つめていた。
もう一度目を閉じると、
ほんの短い夢の断片が浮かび上がっては消えていく。
かつては簡単にできていた朝の支度や、
何気なく着替えてリビングに行くことさえ、
今のるなには遠い世界の出来事のようだった。
それでも、今日はほんの少しだけ、
布団の端に指先を伸ばしてみた。
冷たい空気に触れるだけで、
「ここにいる」と実感できる気がした。
外の音――
子どもたちの声や遠くの車の音、
誰かが遠くで話す声、
そのひとつひとつが、
少しずつるなを現実に引き戻していく。
しばらくして、
「お加減はいかがですか?」
と明人が静かに問いかける。
扉の向こうに感じるその気配は、
無理に励ますでもなく、ただ見守ってくれていることを伝えてくれる。
返事はできなかったけれど、
胸の奥でほんの少し何かが動いた気がした。
(少しだけ、起き上がってみたい)
そんな思いが、波紋のように広がる。
けれど体はまだ重く、
焦らず、もう少しだけこのまま温もりの中に留まることにした。
窓辺に光が広がり、
部屋の空気がゆっくりと朝から昼へ移り変わっていく。
るなはその変化を、
静かに受け止めていた。
小さな手の動き、
ほんのわずかな行動。
けれどその一歩が、
るなの世界をそっと揺らしはじめていた。
自分でも気付かぬうちに、
小さな芽が心の奥で静かに膨らんでいくのを、
るなはただ感じていた。
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
動けない日々のなかで、
手を伸ばすだけでも大きな一歩になること。
誰かがそっと見守ってくれるだけで、
心の奥に少しずつ希望が灯っていく――
そんな変化を、これからも大切に描いていきます。
引き続き見守っていただけたら嬉しいです。