【第105話:静けさのなかで、耳を澄ませて】
今日は、動けないまま迎える午前の時間を描きました。
外の音や明人の気配がどこか遠く感じられ、
ただ布団の中で静かに耳を澄まするなの心――
小さな焦りや、甘えたい気持ち、そのどちらも丁寧に描いています。
【第7章】こころ、沈みゆく底で(2話目)
窓の外から、やわらかな光が少しずつ部屋に差し込んでいた。
るなは、まだ布団の中で身体を丸めたまま、時折、遠くの物音に耳を澄ませていた。
天井のシミをぼんやり眺め、まぶたを閉じては、またそっと開ける。
時計の針の音、遠くを走る車、誰かの話し声――
それらはすべて、ガラス一枚隔てた向こう側の世界の出来事のようだった。
自分だけが止まってしまったみたいで、どこか取り残されたような気がした。
明人が廊下を通る足音。
キッチンで何かを温める音。
それらも、今日はなぜか遠く、靄がかかったようにぼやけて聞こえる。
「……るなさん、コーヒーを淹れました。あとで、飲めそうだったらで大丈夫ですよ」
やさしい声が、扉越しに響く。
返事をしようと思ったけれど、言葉が口の中で溶けてしまい、
ただ、静かに息を吐いた。
温かい香りが、わずかに部屋の中に漂ってきた。
それだけで、ほんの少しだけ胸の奥が柔らかくなる気がした。
けれど、身体はまだ動かない。
毛布の感触と、自分の心音だけを頼りに、もう一度目を閉じる。
“このまま、何もしないでいられたら楽なのに”
そんな思いと、“いつか動き出さなきゃいけない”という焦りとが、
交互に胸の中を漂っていく。
寝返りを打とうとするけれど、
肩も背中も重たくて、少しだけ動いたところでまた静止してしまう。
昨日の自分なら当たり前にできたことが、
今日はどうしても、うまくいかない。
窓辺のレースのカーテンが、わずかな風でふわりと揺れた。
光の粒が、淡く床に落ちていくのが見える。
その美しさにさえ、今のるなには手が届かなかった。
ほんの少し前まで、“動きたい衝動”が身体を満たしていたのに――
今はその名残だけが、遠い記憶のように胸の奥に漂っている。
「……あと少しだけ、このままで」
心の中でそっとつぶやく。
自分を甘やかしている気がして、
でも今は、それ以上何もできなかった。
外の世界は、ゆっくりと動いている。
家の外から、どこか遠くで子どもたちの遊ぶ声がかすかに聞こえてくる。
日常の音が、薄い膜を通して流れてくるような、そんな午前。
るなの時間だけが、今日も止まったままだった。
でも、その止まった時間の奥底で、
ほんのわずかに「何かが変わるかもしれない」と願う自分がいることに、
るなはまだ、気づいていなかった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
誰ともつながれないような静けさの中でも、
るなの心の奥には、まだ動き出せない願いや小さな希望の種が眠っています。
次回もまた、るなの“止まった時間”をそっと見守っていただけたら嬉しいです。