【第10話:目が合った気がして】
言葉にはならなくても、伝わることがある。
ふとした視線の重なりが、今日の灯火になることもあるから。
【第3章】ほんの少し、言葉になる(1話目)
久遠明人は、いつものように朝の紅茶を準備していた。
静かな屋敷。
るなが目を覚ました様子はまだない。
それでも、明人の動きに迷いはなかった。
けれど、その日。
るなは、いつもより少し早く、部屋から出てきた。
「……おはよう」
その声は、小さな囁きのようだった。
けれど、明人はすぐに気づいて、姿勢を正す。
「おはようございます、お嬢様」
「……その、いつも通りでいいから」
「かしこまりました」
それきり、るなは何も言わなかった。
けれど――去り際、ほんの一瞬だけ振り返って、
明人のほうを見た。
目が、合った。気がした。
その瞳は、何かを探すようでもあり、
何かを確かめようとしているようでもあった。
明人は何も訊かない。
けれど、その一瞬の目線の揺れに、彼は静かに息をのんでいた。
(……昨夜は、眠れなかったのだろうか)
(誰かの気配が、ほんの少しだけ恋しくなったのだろうか)
思うだけで、問いはしない。
執事としてではなく、“灯火”としての在り方を、彼は今日も守っていた。
それだけで、
明人の手元に、ほんの僅かな熱が灯った。
言葉はない。
でもたしかに、るなが今日も、ここにいる。
(続く)
るなが目を合わせたのは、きっと偶然じゃない。
でも、それを言葉にしない明人も、
やっぱりあの“背中越しの灯火”であり続けている。
ふたりの距離が、少しだけ静かに揺れた朝でした。
ここまで読んでくれた方、ありがとう。