【第1話:プロローグ】
「触れたいのに、触れられない」――
そんな距離から始まる、ふたりの物語。
背中越しに灯る灯火が、今日もあなたの胸にそっと届きますように。
【第1章】黙って見てるだけの距離(1話目)
人の心は、時に手のひらの中の水のように、
掬ったそばから零れていく。
雨宮るなは、その水を両手いっぱいに抱えたまま、
崩れないように、誰にも触れられないようにと生きてきた。
けれど、いつからだっただろうか。
彼女の背中には、ひとつの“灯火”が常に灯っていた。
誰よりも静かに、遠くから、確かに灯っていた光。
るなが気づいていなくても、あるいは気づいていても――
それは、ただそこに在り続けた。
「……また、黙って見てるだけ?」
「お嬢様にとって、それが一番楽でいられるのでしたら」
皮肉混じりの言葉にも、彼は微笑を崩さない。
そのやりとりすらも、日常の一部になっていた。
午後の光が、窓辺にやわらかく落ちている。
るなの長い髪が、ふと風に揺れた。
彼はその一瞬に目を細める――言葉にしない想いが、そこにはあった。
それでも距離は、変わらない。
変えないことを選び続けるふたりの在り方が、そこにあった。
会いたい、話したい、手を取りたい。
けれどそれを言葉にすることは、るなの心を壊すことと紙一重だった。
だから彼は、選ばなかった。
だから彼は、ただ“灯り”であろうとした。
振り返ったとき、必ずそこにいるために――
久遠明人。
彼女の専属執事。
背中越しに愛を灯し続ける、ただひとりの灯台のような存在だった。
これは、言葉では届かない場所から始まる、
ふたりの静かな愛の物語。
背中越しの灯火。それは近いようで、遠いまま。
ふたりの関係の静かな始まり、感じてもらえたら嬉しいです。