港町の晩秋
マントと雑貨屋
「あら、いらっしゃい、これは珍しい。何カ月ぶりだろうね。いつも突然やってくるから、こっちは驚かされるよ」
店先から大きく歩道に張り出した、さび浅葱に染められた帆布の日よけが大きく膨らんだ。
午後の遅い時間の空は、高く青く澄んでいて、一筆書きのようなすじ雲が白く光る。
波の穏やかな湾の奥に小さな港がある。
その港を囲むようにして人々が暮らしを営む。
小さな港だが水深が深いため、大きな船を迎え入れることができる。
昔から世界中の船が鉄鉱石や石炭、酒とたばこ、魚と肉、香辛料と音楽、そして男と女を運んでくる。
「おや、今日はいいコートを着ているね。ええっ、マントだって?まあ、私にゃそんなことはどうでもいいけど」
店先で忙しそうに働くマヤネさんの声は、いつも張りがあって、体育の時間のホイッスルのようだ。
店先の通りを北から南に風が吹き抜ける。
この港町の目抜き通りの端にある、マヤネさんの店。
世界中の雑貨や食品などを集めては店先に並べたり、遠くのいろいろな町や村へ送っている。
店の中には可愛らしい手鏡や、何に使うのかわからない大きな木の人形、古いタンスや破れた傘、とにかく何があるのかわからないけれど、なんでもある。
食べたこともないようなクッキーや、34色のキャンディーが入ったブリキの缶も並んでいる。
マヤネさんの手は止まることがない。
この時季ならいつもはシャツの袖をまくり、太い腕で倉庫の奥から重そうな箱を持ってきては、その中の商品を小箱に詰めてあちこちに送る手配をしている。
そうしながら店を訪れるお客の相手もする。休む暇はないのだ。
しかし今日の彼女はさすがに袖をまくっていない。
さっきまで明るかった空は、次第にその色を変えていく。
時刻はまだ四時すぎ。
西の空は、沈みかけた太陽の周りを橙色をに染めていき、刷毛で引いたような雲も、いずれ同じ色に輝くのだろう。
店先の通りには、すずかけの木が丸い実をつけている。その根元と周りの道にはたくさんの枯れ葉が落ちている。
カラカラカラ。カラカラカラ。
舞う枯れ葉を、小さな女の子が追いかけては赤い靴で踏んでいく。
グシャグシャ。グシャグシャ。
その後ろからお母さんが買い物かごを抱えて追いかける。
「そんなに走ってはだめよ」
「ええ、なんだって。珍しく私がシャツの袖をまくっていないって?そりゃあんた、これだけ急に寒くなっちまうと、無理は禁物だよ。でもね、あんたのようにコートを着るほどじゃあないね。ええっ、マントだって?そんなことはどうでもいいけど」
そう言いながらもマヤネさんの手は止まることもなく働きづめだ。
額にうっすら汗まで滲ませて。
「汗を拭いた方がいいって?わかってるよ、でもね、ここで手を止めちまうと、身体全体っていうか心の中までもが、もう仕事いいや~って感じになって動けなくなっちゃうんだよ」
言葉遣いとはうらはらに、彼女の仕事ぶりは優しくて丁寧だ。
品物を詰め込んだ小箱を、ひとつひとつきれいな包装紙で包み、これまたきれいな文字で送り先の住所を書き込んでいく。
送り先は海の向こうの小さな島であったり、一年中雪と氷で覆われた山のてっぺんだったり、実に様々だ。
「もうちょっと待っとくれよ。あと少しで終わるから。そうしたら熱いお茶を淹れてあげるよ。今日中にこれだけはやっておかないとね」
マヤネさんの後ろにはたくさんの小箱が山積みになっている。
相変わらず彼女の手は止まることがない。
包み終えた小箱を、今度は店先にある荷車の荷台に積んでいく。
「いつも悪いね。この作業が私にはいちばんきついんだよ。なにせ、私ゃこの背丈だろ。荷台の端まで手が届きゃしない。そのてんあんたは背もひょろりと高くって、手足も長い。助かるよ。そのコートを脱ぎなよ。荷台の古釘にでも引っ掛けたら大変だよ。ええっ、マントだって?あんたもこだわるね」
荷台は見るみるうちに小箱でいっぱいになる。
小箱は荷台に山のように積みあがった。
積み終わると夕方は終わっており、夜が始まっていた。
「こうしときゃ、明日の朝エドルが馬で駅まで運んでくれる。本当にありがとう、助かったよ。じゃあお茶を淹れようか」
始まったばかりの夜の闇に、お茶の香りが漂う。
甘いような、ほろ苦いような、ほっとするような香ばしい香りは、通りを北から南に吹く風に乗り夕暮れの町を通り抜ける。
「このお茶、ねっ、おいしいだろ。ウチのダンナの実家から送ってもらったの。秋摘みのお茶でね、なんだかとっても身体にいいらしいんだよ。あんたがいくつか私は知らないけど、身体のことは若い時から気を遣ってた方がいいに決まってるのさ」
通りの家々の窓に灯りが燈り始めた。
ゆらゆらと歌っているような黄色い穏やかな光だ。
通りに夕餉のにおいが漂い始めた。
ふわふわと漂うのは懐かしい甘やかな香りだ。
「お茶ごちそうさんでした、って。いいんだよ、そんなことは。また来ておくれ。あんたとこうやって話をするのが楽しみなんだから」
通りは、街路灯に照らされてなんだか雨でも降ったように輝いている。
賑やかな町の中心部まではあともう少し。
マントの襟を合わせて町を眺める。
北から南に風が吹き抜ける。
公園の少年
「時間があるなら、少しでいい。そこのベンチにでも腰かけて聴いていきな」
初老の男が、声をかける。
通りは、シティーホールの前のロータリーで、ぐるりと回りこむ。
ロータリーの真ん中には、空を見上げる少年の像。
この町の中心部だ。
人や車の通りも多くなり、通りに面したレストランからいいにおいが漂う。
通りの奥にはいくつもの小さな民家。
窓は穏やかな黄色に染まっている。
シティーホールの横には、噴水のある小さな公園。
公園では初老のアコーディオン弾きがタンゴを弾き始めたようだ。
それを聞きつけた、仕事帰りに既にどこかで呑んできた男たちが、周りを取巻く。
さらに遠巻きに眺める女たち。
ガヤガヤ、ガヤガヤ、人々が集まってくる。
ほら、あれをみて。どれ、どこだい。女が、男がしゃべる。
「あれはアコーディオンじゃないよ。バンドネオンっていうんだ」
少年が教えてくれる。
褐色の頬がほころぶ。
「あの丸いボタンを押して音を出すんだ。僕の国の楽器だよ」
少年もベンチに腰を掛ける。
と、少年の帽子が風に舞い上がる。
それを追いかけて、走る少年の脚は、小鹿の脚ように華奢で細いが、しなやかなばねのようだ。
突然、人々の歓声と拍手が起きる。
さっきまで、演奏を聴いていた女がひとり、踊り始めたのだ。
赤いエプロンを、まるでドレスのように激しくひらめかせて。
男たちが、女の腕や脚、腰のうごきにくぎ付けになる。
次第に激しくなる動きに、女の額に汗が輝く。
しゃれた帽子を被った背の高い若い男が、踊る女の右手を取る。
女は男を迎え入れ、細い腰を男にゆだねる。
二人の身体が、絡み合い、解け、また絡み合う。
激しいリズムに乗って。
人々の歓声と熱気のこもった拍手が公園の闇を溶かす。
指笛が響き渡る。
誰かが爆竹を鳴らす。
黒い木々の影から、鳥たちがいっせいに羽ばたく。
「あの男の人は、僕と一緒の船に乗ってきたんだ」
少年は、取り戻した帽子を膝の上に置き、ベンチに腰を掛ける。
また、公園を風が通り抜け、少年は膝の帽子をぎゅっと握りしめる。
風にあおられた少年の髪から香辛料の香りが逃げていく。
いったいいくつの香辛料なのだろう。
「今日のお昼にお父さんと、この港に着いたんだ。マジョラム、オレガノ、セージ、ローリエ、他にも たっくさんの香辛料を運ぶ船なんだ」
見上げる少年の瞳の色は海洋の碧だ。
「今夜は、新鮮な野菜と肉でシチューを作るって、船の料理長がいっていたよ。長い間の航海で、みんな野菜不足になっているはずだから。もちろん香辛料がたっぷり入っているんだ」
港は、通り沿いの建物のすぐ後ろ。
公園では、バンドネオンの演奏と二人の踊りが最高潮に達したようだ。
まるで、公園だけがこの町から浮かび上がったように、光と音に包まれる。
「僕のお父さんは大きな船を持っているんだ」
「鉄鉱石やボーキサイトって知ってる?アルミの原料だよ」
ポケットから小さな磁石を出して少年は話を続ける。
「ほら、この磁石が指しているSの方から運んでくるのさ」
「去年はボーキサイト。その前は鉄鉱石だったよ」
公園が再び大歓声に包まれた。
タンゴが終わったようだ。
「でもね、石炭は運ばないんだって。ええっ、何故かって、だって船が真っ黒になるじゃないか。石炭を運ぶと、もう他のものは運べなくなっちゃうからさ」
「磁石の見方がわからないって。このNが北でSが南。Eが東、Wは西だよ。僕の国はWの方なんだ」
得意げにそういうと、山の影も見えなくなった黒い西の空を指さした。
ユラユラ、ユラユラ、磁石の針はやがて不安げに止まる。
キラキラ、キラキラ、いつの間にか星が光始める。
「さあ、そろそろ船に帰らないと。久しぶりの陸だけど、やっぱり僕は船の上がいいよ」
少年は帽子を目深にかぶり、シャツの襟を立てて、通りを港の方に曲がりこんでいった。
工場の駅舎
更に通りを進むと、大きな建物が立ち並ぶ。
煙突が、黒い空を突き上げるようにそびえる。
ガコーン、ガコーン、鉄と鉄がぶつかり合うような音。
ブシューッ、ブシューッ、蒸気が噴き出すような音。
工場の屋根から星空に伸びる高い煙突には、近づくことを拒むような赤い点滅ライト。
この時間でもサーチライトの中で、多くの人や様々な機械が仕事を続けている。
この光やにおいが、さっきまでの和やかな雰囲気を変えていく。
煙突から吐き出される煙は、空に出たとたん、風に流され、かき乱され、南の空に白く這うように逃げ延びて、いずれ消えていく。
寒々と輝きを増した、鋭利な三日月。
月よりも更に白く、冷たい星たち。
それでも、一晩中働く人々の熱気が、大きく黒い建屋の輪郭を作り上げる。
工場から少し進むと小さな駅がある。
隣町からこの工場や店に働きに来る人たちは、この駅を利用している。
切符の券売機が一台だけの小さな駅舎。
待合室のベンチには、二人の女がおしゃべりに夢中だ。
ベンチの前には黒いだるまストーブが置いてあるが、火はついていない。
それでも女たちは、まるでストーブが暖かいかのように、両手をかざしている。
「なんだか急に冷えてきたね」
「昼間は暖かだったのに。もうこんな季節なのね」
待合室の片隅に入り込んだ風が、小さな渦を巻いて、ほこりやたばこの吸い殻を躍らせている。
「いやだよ、私達ったら。ストーブに火なんか入ってないのに」
「あら、私もついつい」
あははは、あははは、女たちの明るい声が待合室に響く。
からから、からから、ほこりの渦がくしゃくしゃの切符も巻き上げる。
「今日はなんだかお客さんがたくさん来てね、休む暇もなかったわ」
「それは大変ね。でもいいじゃないの。それだけ繁盛してるってことだから」
「何言ってるのよ。お客がどれだけ来ようが、儲かるのは社長だけで、私ら売り子は決まった安月給で働かされるの」
「それじゃあボーナスは?」
「そんなもの、あそこで働き始めて二十年以上になるけど、一度だってもらったことなんてないわよ」
「それはひどいね。どこも一緒か。でも、うちの工場なんていつ潰れるのか分かりゃしないもの。それに比べれば、あんた、安心できるじゃない」
「そんなことないって。うちだっていつどうなることやら」
風に乗り、遠くから踏切の音が聞こえてくる。
プウワ~ン、プウワ~ン、汽笛の音も聞こえてきた。
キキキ~、キキキ~、ブレーキの音だろうか。
「列車が来たようだね」
「今日は時刻通りだね。一昨日は大変だったのよ。信号機の故障で、二時間ほど待たされたわ。おかげで家に着いたら九時過ぎよ」
相変わらず火のないストーブに手をかざして、話は尽きない。
もうすっかりひげが白くなった駅長が、ホームに立つ。
手持ちランプで線路を確認して、列車の方を指さす。
「灯台下経由山の町行きの列車は、定刻通りの到着です」
手持ちランプの炎がゆらゆらと、駅長の影をホームに映し出す。
大きな影絵のように駅長の影は、今にも踊りだしそうだ。
女たちは、漸く腰を上げ、ホームにやってきた。
風で乱れる髪を、一人は赤いひもで器用に縛り、もう一人は花模様のスカーフでくるりと包み込んだ。
灯台の光を目指して
駅舎の背後の山は黒い塊となり、空に溶け込んでいる。
その山肌に沿って、尾根道を目指す。
滑るように、滑らかに。
その山を突き抜ける隧道を走り抜けてきた列車が、森の木々を照らし出す。
それはまるで、コマ送りの映画のように、暗闇に映し出されては消えていく。
ピー、ピー、ピー、警笛は夜に恐怖する列車の叫びのようだ。
ギャッ、ギヤッ、ギャッ、鳥の声は闇の呪詛のようだ。
山は南に尾根を伸ばしていく。
列車は海岸線を縫い込んで走る。
そして突然たる現実を恐れることなく、海にその姿を消す。
そして慄然たる軌跡を残すことなく、岬を目指す。
山肌を覆うような低い灌木を抜けると、やがてその姿を現した白い灯台。
真っ暗な空を駆け抜ける光は、青白くかなたの海まで照らし出している。
その青白い光が、巨大なレンズを中心に、ゆっくりと、しかし正確に回り続ける。
船の不安や恐怖を、優しく撫でていく。
町の不満や驚きを、穏やかに包んでいく。
昼間は穏やかだった海は、今は次第に白い波がしらを、その灯台の光の中に浮かび上がらせる。
時折強く吹き付ける風に、それでも灯台の光はいささかも揺るぐことなく、夜を照らし続ける。