始まりの胎動1
クロムたちの前に落ちてきた少女は、月の巫女姫イオンと名乗った。
月の巫女姫とは月貴族の指導者的立ち位置とされている。
実質的な政治活動は月の賢老院が担っているものの、その立場は宗教的な信仰の対象になっているという。
地上にもその話は伝わっているが、確かにその力の片鱗は噂に違わなかった。
やれ人々を従わせる神通力を持っているだの、すべてを見通す千里眼を持っているだの。
あるいは、不死身の肉体を持っているというのもある。
ただのおとぎ話と思われていた噂であるが、いざ本人を前にするとそれは真実味を帯びてきた。
本部の団長室、二人っきりの空間で機工師団と月貴族、両陣営の代表が向かい合う。
「端的に言おう。あなたは今代の月の巫女姫ではない。
つい最近、月の巫女姫は世代交代が行われて、エンディル様が13代目に就任した。
そうですね、アイオネル様?」
「ふん、気に入らないわね。でもまあ、事実と認めるわ」
厳つい顔をしたジルコン団長の問いに、イオンと名乗った少女は歯噛みする。
いったんシャワーを浴び、相応の格好に着替えさせられた彼女は、改めて見ると美少女と言っていい範疇だった。
その傲岸不遜な物言いも、地上人が思い描く月貴族そのものである。
「そちらこそ、こちらの情勢をよく調べてるわね」
「まあ、それなりの伝手がありますからな。それに、こちらとしては月と事を構えるのは避けたい」
「ずいぶん悠長だこと。それとも、帝国にでも遠慮してるのかしら。
あの蛮族どもに地上を随分といいように荒らされてるみたいだけど……」
「…………」
実際のところ、銀の帝国は月貴族への抵抗と完全排除を掲げ一定の支持を得ている。
大人世代にとっては未だに月の脅威は根強い。
多少強引なところはあれど、それを利用して帝国は版図の拡大を続けていた。
このままいけば、地上の大半は遠からず彼らの手に落ちるだろう。
対する独立機工都市と機工師団は月との対話路線を堅持している。
理由は明白、月には絶対に勝てないからだ。
技術力も物量も地上のそれとは圧倒的な差があるうえに、そもそもの問題として月へ行く手段が存在しない。
白銃のシャムロックという切り札が手元にあったとはいえ、敵を月に追い返せたのは僥倖以外の何物でもなかった。
帰還戦争において常に最前線で戦ってきた巨拳のジルコンにとって、その事実は骨身に染みている。
「……それで、あなたはどうして地上に?」
「決まってるじゃない。あの女にとってあたしは目障りでしょうからね。
賢老院の目をかいくぐるには結構な無茶をしたけど、おかげで思わぬ収穫があったわ」
「……クロムウェルか」
「そ、あの子ならあたしをあの場所まで届けてくれる。月の巫女姫なんて、仮初の玉座なんかじゃなくてね」
彼女の言わんとすることを、機工師団の団長ジルコンはよく知っていた。
それは、かつての帰還戦争の折、地上の惨状を目の当たりにし、涙さえ流した一人の少女との叶えられなかった大切な約束である。
だが、それを目の前の人物に託すべきなのか、すぐには判断ができない。
「第10代目の月の巫女姫エリクシェル。
彼女と白銃のシャムロックが交わした約束は、あたしとあの子で叶えるわ。
ヘルメスの残した錬星術を用い、地上から錆を一掃し、元の美しかった世界を取り戻すの」
それは人類にとって夢のような提案だった。
それが例えどれだけの代償を払うことになっても、叶えるべき価値がある。
「どうする?
このことは帝国はもちろん、月の元老院もあの女も気付いていない。
チャンスは今しかないわ」
「…………」
イオンは軽々しくそう言うが、いずれ事態が露見した時、前回の二の舞にならないとも限らない。
それは今度こそ最悪の事態を意味する。
「少し……考えさせてくれ」
「そう。でも、いずれ答えを出す時が来るわ。
あまり遠くない未来に、ね……」
苦悩するジルコンをよそ目に、イオンはどこまでも遠くを見通すような目でそう嘯くのだった。
●
どこまでも深い水の底、一人の少女が沈んでいる。
一糸まとわぬ姿のまま、まるで胎児のように丸まりながら、生まれ出る時を待つかのようにひっそりと。
黄昏のように赤く染まる世界の中で、彼女の存在だけが人の温もりを宿しているようだった。
「あなたは誰?」
「――――ッ!」
見られていることに気付いたのか、赤い少女はそっと目を覚ます。
その瞳に映るシルエットに、確かに自分の面影を感じ取り、クロムは言いようのない懐かしさと哀しみで心をかき乱されていた。
「君は……」
「わたしは世界の言の葉を紡ぐもの……すなわち星の記憶そのもの」
「星の記憶?」
知らない単語にクロムは戸惑う。
そもそもここはいったい何なのか。どうしてこんなに涙があふれるのか。
夢の中だとしてもあまりにも不思議な感覚に、少年の頭では理解が追い付かない。
「いずれあなたはここへ至ることになる。その時、今度こそ私を……」
「……クロム、ねえ、クロムったら!」
目の前の少女の声とどこからともなく聞こえる声が重なる。
全身を揺さぶられる感覚に無意識が霧散し、覚醒した意識に上書きされると同時に慌てて飛び起きていた。
「おはよー♡」
「イ……アイオネル……様?」
自分に跨り見下ろす少女の姿に気付き、少年は戸惑うことしかできない。
振りほどこうと思えば簡単に振りほどけるだろうが、曲がりなりにも客人にそれをしていいものかどうか。
彼の躊躇などお構いなしに、彼女はニヤリと微笑むと。
「もー、イオンでいいってば♡
それより、どっか連れてってよ。この服ダサいから、もっとかわいい服が欲しいのよね。
美味しいものも食べたいし、どうせなら楽しいことがしたいじゃん」
そもそもなぜ彼女がここにいるのか。
機工師団の団員の宿舎には相応のセキュリティが施されている。部外者が簡単に出入りすることはできないだろう。
色々と疑問は尽きないが、命令がなければ相手をする必要もない。
「ちょっと、二度寝すんな!
あー、それとも、朝からいけないことでもしちゃう?」
「…………」
正直このままほっといても良かったのだが、面倒なことになりそうなので起きることにする。
イオンは適当に少年をからかって満足したのか、部屋を眺めながら時間を潰していた。
「それにしても殺風景な部屋ね……もうちょっとお洒落してもいいのに」
「ほっとけ……」
適当に相槌を打ちながら、そそくさと着替えをすます。
と言ってもいつもの制服である。
左胸に大きくXの意匠が施された青い軍服は、この街においてエリートの証だ。機工師団の錬金術師ともなれば、多少の融通は効く。
このお姫様が何を望んでいるのかはわからないが、トラブルを未然に防げるに越したことはない。
「一応、上に確認取るからな」
「いいけど、早くしてよね。あの子が嗅ぎ付けると面倒そうだし」
「…………?」
おそらくアルミナのことを言っているのだろうが、要らぬ心配だろう。
昨日は砂嵐で感度が落ちていたようだが、それでも都市内で彼女に把握できないことなどない。
あるいはそれすら出し抜ける算段があるのか。
結局、ジルコン団長からは可能な範囲でイオンの護衛をしろと命令が下された。
任務ということで納得するが、団長も団長で珍客に振り回されているらしい。
お互い大変だなと嘆息しつつ通話機のスイッチを切る。
「じゃ、いこ♡」
まるでそうなることが分かっていたとばかりに、イオンがクロムの腕に自分の両腕を絡めると、二人は街へと繰り出すのだった。
●
独立機工都市アーケンローズは大陸でも有数のコロニーである。
とはいえそれはあくまでも地上人の物差しでしかない。
噂に聞く月面都市カグヤシティとは比べるまでもないだろう。
……と、思っていたのだが。
「確かに見た目は綺麗だけど、あそこはそんないいもんじゃないわよ。
かつての大崩壊の折、月に移住したのは当時の特権階級ばかりってことは知ってるわよね?」
「ああ……」
「労働階級がいないってことは必然的に自律機械がその役割を担うんだけど、どれだけ人工知能が発達しても人間じゃない相手に囲まれる生活というのは相当なストレスなのよ。
しかも、出生率はどんどん低下している……いずれ月に人はいなくなるわ」
それが事実だとすれば、月貴族の脅威とは何だったのかという話になる。
帰還戦争で親世代が散々苦しめられたことすら、いずれ消滅する月人の最後の悪あがきだったとしたら、あまりにも救いがなさすぎるだろう。
「まあ、賢老院はそれを見越して自分たちを不老不死にしようと頑張ってるみたい。
知ってる? 賢老院のメンバーって、地上を見捨てた当時の権力者のトップなの。百年以上前のね。
それが、延命に延命を重ねていまだに生きながらえているわ。あたし達巫女の命を生贄にして」
「…………!?」
「月の巫女姫なんて聞こえはいいけど、あたし達は単なる不老不死の実験台よ。
これまでに何人も……何千人もの巫女候補が実験の犠牲になったわ。運よく生き残って月の巫女姫になれるのはほんの一握りの成功例だけ。
それすらも、ただ祀られるだけの生き神様だけど」
だとすると、イオンが危険を冒して輸送用の貨物コンテナで地上に来たのは……。
だが、彼女は自嘲気味に笑いながら。
「連中の手から逃れるため、じゃないわよ。
もちろん、それもあるけど、あたしには地上でやるべきことがあるの。その手伝いをあなたにしてほしいんだけど……あ、このスカートいいわね」
ブティックに並んだ衣装を眺めていた少女が、見つけたスカートや他数点を手に試着室へと入っていく。
しばらくして出てきたのは、先程とは見違えた快活そうな美少女の姿だった。
「……ま、こんなものね。子供服しか着られないのが気に入らないけど、この際贅沢は言ってられないわ。
ねね、見て♡ こういうスカート履いてみたかったんだ。月じゃ重力が低いから、こういうの取り扱ってないし」
いつぞやのようにくるくると回ってみせる少女を前に、クロムはどう答えたものかと思案する。
正直なところ褒めても貶しても面倒なことになるだろう。
「それで、僕にやってほしいことって……?」
「うーん、嘘でも褒めてくれればいいのに。気分が悪いからその話はあとでね。次は……美味しいものが食べたいかなぁ?」
はぐらかす彼女を連れて、適当な食べ物屋を見繕う。
しかし、それなりに高いお店を提示しても気に入らないらしい。
それもそうだろう、月貴族の基準からすればどれも見劣りする。
「あ、あそこなんてどうかな?」
「あそこって……」
彼女が指し示したのは、街角によくあるファストフードの店だった。
子供が見ても判りやすいように、どデカいハンバーガーのオブジェクトが何の店かを主張している。
「あんなのでいいのか?」
「いいのよ。できればジェラート屋さんがあればよかったんだけど……まあ、お腹すいてるからね」
空腹なのはクロムも同じだった。
仕方なく適当なメニューを注文して店先のテラスで待っていると、やがて大量の料理が運ばれてくる。
一口では頬張れないほどの特大のハンバーガーや山盛りのポテトを前に、
「すっごーい、こういうのでいいのよ。
蛮族の料理は期待してなかったけど、意外と美味しいじゃん♡」
「お気に召したようで何よりです」
彼女が調子に乗って注文するもので、余った分は少年が全部処理する羽目になったが、どうやら満足してくれたらしい。
次はどこへ行こうかと思案してると、道の向こうから見慣れた若者が声を掛けてくる。
「おう、クロムじゃないか。こんなところでどうした?」
「お前こそ……」
「俺は妹の見舞いの帰りでな……お陰様で随分と元気になってた。
まあ、まだ無理はできないらしいが……やっぱりここに来てよかったぜ。
そうそう、お前のことを話したら一度お礼が言いたいってよ」
「まあ、そのうちな」
ステインの妹リンは順調に回復しているらしい。
さすが機工師団の医療班はエリートの集まりである。
完治にはやはり特別な薬が必要らしいが、それもいずれ手が届くだろう。
「そう言えば、入団テストも合格らしいな。フェルミ班にも正式に辞令が来てた」
「はは、筆記試験はギリギリだったみたいだが……これもクロムのお陰だな。
……引き続き世話になるぜ!」
やはりというかなんというか、ステインの配属先はフェルミ班に決まった。
他に使いこなせる部隊がないというのが理由らしい。
何というかただでさえ周りから変な集団だと思われているのに、これでますます言い訳できなくなってくる。
「んじゃ、また今度な!」
「あぁ……」
適当にステインの後姿を見送ってから、そう言えば放置されたイオンがやけに大人しいなと傍らに目を向ける。
彼女は先程買ったタピオカバナナオレを飲みながら、物凄く不思議そうに。
「あれ、なんなの?」
「一応、うちの新人団員だが……」
「錬金術師? あれが? あたしには人の形をしたバグか何かにしか見えなかったけど……まあいいわ」
「…………?」
イオンの言わんとしてることがクロムには全く分からなかったが、バグ呼ばわりされても仕方ないかもしれない。
試験官の暴走があったとはいえ、オムニ合金製の柱を軽々と捻じ曲げて見せたのだから。
あのあと予定外の闖入者があったものだから有耶無耶になってるが、月の技術を元にした強固な構造物を軽々と破れるのは頼もしくもあると同時に恐ろしくもある。
「そんなことより、次行きましょ、次。どうせならこの街、とことん楽しまないとね!」
少年の戸惑いなどお構いなしに、少女は先へ先へと歩き出す。
それに引きずられるようにしながら、二人は雑踏の中へと消えていくのだった。