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乾杯

 エヴァーアイリスを生けた花瓶の横。テーブルの上のものと丸っきり同じワインボトルが置いてある。こっちはテレシア女王が自分で用意したものだ。

 一旦間違ってテーブルの上に置いてしまえば、リーデッヒが用意した同じものとはもう見分けを付けることは出来ない。

「……」

 何を迷うんだ。オープナーで栓を開けてグラスに注いだら、ひとまず中の匂いを嗅いでみた。まるで毒性なんか感じない、酸味のある新鮮な香りがする。

「どうぞ」

「あら?」

 運んだグラスを女王が受け取ると驚かれてしまう。きっと俺が同じグラスをもうひとつ手に持っているからだ。

「あなたは飲んではダメよ?」

「分かってます。形だけです」

 言いながら俺は女王の隣に座る。俺が持つワイングラスの中に同じ紫の液体がゆらめいた。

 女王は何度も、飲んだらダメ飲んだらダメとうるさいから「乾杯をしたらそこに置きますから」と言い聞かせる。そしたら、すぐに乾杯をしてそこに置いてちょうだい、となる。

「絶対にあなたは飲まないこと!」

「分かってますって。乾杯の言葉はそれで良いんですか?」

 グラスを傾けたまま、女王は少し動きを止めた。

 リーデッヒへの伝言でもあるのか、それとも感謝の言葉でも言うのか。こんな命の引き際に俺に言葉があるのか。「うーん」と唸りながら考えている。

「……うん。そうね。それで良いと思うわ」

 月が見えるこの位置から、ソファーに座る男女がワイングラスを当て合って鳴らす。

「あなたはそのワインを絶対に飲まないで」

 カチンと鳴ったあとは、女王がそのワインを口から喉へと通らせた。

 俺は言われた通りにソファーから一度立ち上がって、花瓶の横にグラスを置いてきた。

 また女王の横に座り直した時には、女王が持っていたグラスは半分以上減っている。

「やっぱり美味しいわね。久しぶりに飲めてよかった」

「味は変わらないんですか?」

「どうかしら……少し苦い? だけど渋みで気にならないわ」

 女王はクイっと飲み干して「もう一杯!」と笑顔でグラスを向けてくる。

「はぁ。泥酔しながら死ぬつもりですか?」

 すると女王は酔っているからなのか、口いっぱいに空気を溜めて風船のように頬を膨らました。

「子供ですか」

「子供です!」

 よく分からない冗談だ。なのにちょっと面白くて笑ってしまう。

 俺はまた立ち上がって花瓶のところでワインを注ぎ、女王に持っていくという動作を何回かした。

 次第にソファーにまともに座れなくなり、たびたび滑り落ちそうになる女王を抱えて座り直させることになってしまう。

「はぁ……。もう飲めない〜……」

 女王は泥酔した。ワイングラスは危ないから取り上げようとするけど阻止されてしまう。


 ワインを運ばなくて良くなったあとは「枕になって」と命令される。人間には無理ですと答えたが、女王が俺の肩に寄りかかるだけで叶ったらしい。

「リーデッヒ。愛してるわ……」

「……」

 寝ているのか起きているのか。寝言みたいに言ってる。少し首を動かして見てみると、女王は幸せそうな顔で穏やかだった。花瓶の方のワインもリーデッヒがすり替えたのかもしれないと思うほど。

「枕は動かないのっ!!」

「は、はい……」

 急に大声を出して叱れるほどには元気も機嫌も良いらしい。

 とはいえ。女王がもたれている肩からは、言い難いものをすでに感じ始めてしまっている。

「はぁ。みんなには感謝しなくちゃね……」

「感謝なんて誰も望んでないですよ」

「わたくしは感謝しているの……。本当にみんなが大好きだった……」

 女王の位置が悪く、またずり落ちそうだったんで俺が姿勢を立て直そうとする。すると、女王はもう自分の力で縦になっていれなく、危うくソファーから落ちるところだった。

 寸前で抱き抱えた受け止めたが、もう女王には「大罪です!」と怒れる力も残っていない。

「女王。ベッドに寝ますか?」

「い、嫌よ。病人じゃ……ないんだから……」

 同じ方向を向いていた時には気付かなかった。女王の肌が冷えていくなということぐらいしか。

 ようやく今、女王の顔を見ることが出来た時、酔ってあれだけ赤かった顔から血の気がすでに引いていると気付いた。唇にも色がない。

 しっかりしてください。

 口を付いて出そうになり、俺はこれではいけないと奥歯を噛んだ。

「病人じゃないなら。しっかりと座っていて下さい」

 上体を起こさせ、寒そうな女王に何か羽織る物をと辺りを探している。すると女王は激しく咳き込み、絨毯の上に血を吐いた。

「はぁ……はぁ……」

 毒が回っている。やっぱりあれは女王が自分で持ち込んだ毒の入ったリリュード産のワインだった。

「女王、俺の上着を貸します」

 いつかにやったみたいに上着を女王に掛けた。しかしそれも彼女の肩や手で留めておくことが難しくて、何度もすり落ちてしまうほど、もう体のどこにも力が入らないみたいだ。

「クロノス……」

「なんですか」

「夫には会えるかしら……」

「会えますよ。今日はちゃんと月が見てます」

 月の神がテレシア女王の顔まで照らしている。

「クロノス……。リーデッヒのことを、やめた方がいいと言ってくれたこと。……嬉しかった」

 俺が何か答える前に女王が言葉を繋げていく。

「クロノス……。ニューリアンはいい国です。クロノ……ス。きっとあなたなら大丈夫……」

 最後と分かって言いたいことを並べたくなったんだろう。酔いも何も分からなくなる前に。

 しかし話そうとすればするほど舌がもつれ、時々血を吐いてしまう。

「寒いわ……」

 暖炉の火はもう消えている。何度も落ちてしまう上着を掛けてあげるだけでは追いつかない。

 そのうちに女王の口から出るものは「寒い」や「痛い」「怖い」が多くなった。

「しっかりしてください」

 一度は仕舞ってしまったこの言葉も意味をなさなくなった。

「無理よ……はぁ。もう、わたくしには、何も。はぁ……出来ない……怖い……」

 絶えず「寒い」「痛い」「怖い」を口にする女王を、いっそのこと銃で撃ってしまった方が良いのかとも考えがよぎる。なのにそう出来ないのは、時々女王が俺の袖を強く掴んで「死にたくない」と言うからだ。

 体の力は抜け切っているのに、爪で皮膚を破くほど強く握りしめた手のひらだった。死にたくないと俺にすがるたびに袖に赤色が滲んで付く。

「クロ、ノス……」

「はい」

「わたくしは……女王として。はぁ……」

 息が続かない。

「女王として立派、だったかしら……」

「……」

「……」

 絶えず言葉を言い続けていた女王が突然静かになった。苦しそうに胸でしていた呼吸も、今はすうすうと鼻で息をし穏やかになった。

 眠っているに違いない。絨毯や袖にも付いた赤色はワインを溢した跡に似ている。

「テレシア女王」

 名前を呼んでも返事はしてくれないんだな。見下ろせるまつ毛がほんのわずかに動いた気がするだけだ。

「立派でしたよ」

「……」

 何も。身動きもひとつもせずに。ただ静かな息を聴かせるだけだった。もう俺の言葉は聞こえていないのかもしれない。だから俺は動かせる手で女王の髪を撫でた。

 もたれ掛かる体がどんどん重くなるのを感じながら、黄金色に輝く綺麗な髪をこのままずっと撫でていた。


(((毎週[月火]の2話更新

(((次話は来週月曜日17時に投稿します


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