第三十六話 真希の場合〜さようなら、ポリアンナ〜
ポジティブ。前向き。
真希が好きな言葉だった。今朝、洗面所の鏡の前に立ち、自分を抱きしめる。
「私は私を愛してます!自分を自分で許します!」
そう呟き、ニコリ笑顔を見せた。真希が世話になっているスピリチュアルリーダー・ミノから教わったメゾットだ。実際、これをやってからポジティブに前向きになれるような気がする。
何事もポジティブでなくては。ミノもそう言っていたし、真希の心の中にはポリアンナが住んでいる。
ポリアンナは真希が子供の頃に読んだ小説だ。苦しい状況の中でもポリアンナは良いところを見てポジティブ。決してマイナスな事を言ったり、思考もしていない。そんなポリアンナに今も憧れている部分があった。
確かに今は冴えない。いわゆる氷河期世代で正規雇用もままならなかった。もう初老に近く、鏡の中はシミだらけのおばさんがいるが、ポジティブに考えよう。清掃のパートの上司からは「若く見える」と言われているし、年齢の割には髪は綺麗なはず。そう、ポジティブ。前向きに頑張らなきゃ。
こうして鏡の前で儀式を終えた真希は、軽く化粧をし、清掃のパートへ向かう。今は一人暮らしだし、こうして鏡の前でぶつぶつ語っていたとしても問題は無いのだ。
鏡を見れば、自分の中にいるポリアンナニ会える。決して希望は捨てない。明るく、ポジティブに。
真希はそう思いながら家を出てバスに乗り込む。
バスは大渋滞に巻き込まれて、全く動かなくなってしまった。雨が降っているからだろうか。窓の外からは強い雨音が響いていた。バスは通勤通学の客で混み合い、軽く地獄だった。運良く吸われた事に真希は心の中で感謝する。スピリチュアルでも感謝はとても良い事って言っていたし。こんな時でもポジティブでいこう。
「まいったわね。これから仕事なのに」
真希の隣の席には、アラフォーぐらいの女性が座っていた。パンツスーツがよく似合う。知的なタイプに見えたが、この状況にはイライラが隠せないようだった。
「なんてお名前なの?」
「え、私? 井崎京子っていいます」
「へえ。私は飯島真希っていうの。私もこれから仕事なので、大変ですけど、ポジティブに頑張りましょう」
「は?」
真希の明るいテンションに、京子は口をポカんと開けていた。
「人は一人一人が神様よ。こんな状況も私たちの波動が引き寄せたのかも」
「へえ。あなた、スピリチュアル系の女ね」
なぜか京子は哀れみに満ちた顔を向けてきた。
「人間が神だったら、この雨もすぐに止められるんじゃないの? 今すぐ止めてみせてよ。死んだ人も生き返らせてくれないかしら。うちの両親も死んでるんだけどね」
「それは……。私達の集団意識や波動が……」
「こういう実験があるの。自分が神様という精神疾患の患者だけ集めて生活させた実験があるんだけど、当然共同生活なんてうまくいかなかった。逆にこんな実験をした医者達が、自分が神様だと傲慢になっていた事に気づいたそうよ。あなたは、こんな実験の話を聞いてどう思うかしら?」
「え、ああ。そうね……」
真希は京子の言う事にイライラしはじめた。小賢しそうで嫌な女だ。
「あなたは少し真っ当なカウンセリングを受けた方がいいかもしれない。スピリチュアルの人は耳に心地いい事しか言わないから、一時的に気分が良くなるだけで根本解決にはならない。自己啓発もそうよ。そう言ったものは栄養ドリンク飲んでるみたいで薬飲んでるわけじゃないから」
京子は名刺をくれた。美容整形外科でカウンセリングの仕事をやっているらしい。
「もちろん、美容や整形のお悩みもどうぞ。何でも聞くわ。あ、もう駅についたわ。またね」
京子はそう言うと、バスから降りて行った。
「何なの、あの人……」
窓の外から雨音が響く。確かにこの雨を止める事はできそうにない。
「私は神様?」
ポジティブ。前向き。
そんな大好きな言葉で誤魔化そうとしたが、京子が言った言葉から離れられなかった。
その後、真希はスピリチュアルリーダー・ミノの元へ相談に行った。
「っていう女性に会ったんですが」
「そんな女は気にしちゃダメよ。私はの守護霊さんも、そんな女は無視しなさいって言ってるから」
ミノは実に耳に優しい言葉をくれる。
「大丈夫。人間は一人一人が神様。ポジティブで前向きに。波動を高めれば何でも良くなるから」
ミノの声は優しく、メープルシロップのように甘かったが。
「でも。なんで拉致事件や誘拐事件、未解決の事件を解決できないんですか? 私達は神様じゃないんですか?」
そう言うと、ミノの声が凍りつく。明らかにに焦った表情も見せていた。まだ若いハーフの女性。綺麗な女性であるのに、目の奥が冷たい。カウンセリングルームはナチュラルなインテリアでまとめられリラックスできる雰囲気であるのに、急に空気が冷たくなってきた。
「人それぞれ課題があるから。波動の問題もあるのよ」
「そう、そうですか」
「そんなマイナスな事に注目したらダメよ。波動が悪くなる。さあ、ポジティブ! スマイルでいきましょう!」
何か誤魔化されているような気分になったが、真希はニコリと笑う。大丈夫、まだ自分の中にいるポリアンナは元気なはず。
「私は私を愛してます。自分で自分を許します」
今朝も鏡の前で儀式をしていたが、なぜかバスの中で会った京子の顔が浮かぶ。
「本当にあなたポジティブで前向き? 単なる現実逃避じゃ無いの? 氷河期世代のおばさんという事実は、ちゃんと見えてる?」
そんな京子の声も聞こえてきそう。自分の中にいるポリアンナは暴れていたが、真希は無視して、洗面所の戸棚を開ける。
洗剤や生理用品の奥に髪の毛の束があった。母親の髪だ。ほぼ真っ白の毛の束。
「ああ、私は……」
五年前の出来事を思い出し、その場に崩れて落ちていた。
あの日も雨だった。
母と大喧嘩をした。スピリチュアルのカウンセリングをやめろと言われ、小さな言い争いから、大喧嘩へ発展。
思わず初老の母を突き飛ばしたら、打ちどころが悪く、死んでしまった。
普通だったら警察に通報するだろうが、そうはしなかった。
「隠さなきゃ……」
真希は母の死体を山奥に捨てに行った。県境にあるし、人も来ない。見つかる可能性は低いと考えた。髪の毛だけは抜き取り束にした。これは遺品代わりのつもりだった。
戸籍上は母は生きている。当然、年金ももらえるので、そのお金をミノに全額貢いでいた。
守護霊がついていて何でも視えるというミノも、この真希の犯行には全く気づいていない。つまりミノは偽物。偽物だとよく知っていながらも、耳に心地よい言葉を聞きたいがために何万円も貢いでいた。
運が良い事に親戚や近所ではばれていない。親戚が来た時は母のフリを演じたが、全くバレなかった。
もう父も兄もとっくに亡くなっている。誰も頼れない。頼れるのは、耳に心地よい言葉と自分の中にいるポリアンナだけ。偽りポジティブさしか残っていない。
「ああ、お母さん……」
白い髪の毛の束を抱きしめ続けるが、もう自分の中にいるポリアンナも息絶えていた。日本は高齢化社会と言われているが、真希の母親のように戸籍上でしか生きていないケースも多いかもしれない。そして今後もこんな地獄が続くのだろうか。
再び鏡を見るが、そこに母とそっくりな初老の女しかいない。シミだらけの肌。確かに髪の毛は少しだけ若く見えるが、それは「子供おばさん」である事をオブラートに包んだ言葉だったのかもしれない。
そろそろ現実逃避は終わりにするか。もう自分の中にいるポリアンナもいなくなったようだ。
あの京子という女に会ってから何か目が覚めてしまった。檻の中へ行く前に京子に挨拶でもしていこう。
実はそんなに不幸だとも思っていない。檻の中へ行けば、衣食住、介護も受けられるかも。意外と健康的な生活を送れるらしい。自由な世界にいるよりマシかもしれない。自由を奪われた籠の鳥も不幸とは言いきれない。生きる能力が低い動物は野生にいても不幸なだけだ。
鏡を見ながら小さく呟く。檻の世界へ微かな希望を持ちながら。最後にポジティブ思考でもしてみるか。
「さようなら、ポリアンナ」




