第1話『夜露 冥(よつゆ めい)』
――キーンコーンカーンコーン。
図書室で見つけたとある小説の世界に没頭していた私を現実に引き戻したのは、十七時を知らせる鐘の音だった。
「貸し出しカウンター閉めまーす」
「あ、ちょっ! 待って……!」
慌てて読みかけの分厚い単行本を閉じる。
直後、私は「しまった」と小さく漏らす。
……どこまで読んだっけ。
ページ数を控えておくのを忘れてた。とほほ。
足早にカウンターへ向かい、件の本の貸出手続きをお願いする。
受付をしてくれたのは、図書委員の男子生徒。
上履きの色が、今年この高校に入学した私と違うから、多分上級生。
彼は淡々と事務手続きを進めてゆく。
その工程はいつもと同じ。見慣れた手順。
見慣れすぎて、図書委員じゃない私にも出来るんじゃないか、なんてくだらない事を考えていた。
そんな矢先。
「はい。一週間後までには返してくださいね。《夜露冥》さん」
「……へ?」
「流石に名前覚えちゃったよ。だって君、毎日来てるでしょ?」
「!!」
顔、覚えられてた!? それどころか、名前まで!?
恥ずかしくて、顔が赤くなるのがわかった。
――こうなってしまった私にできる事といえば、決まって二つだけなのだ。
「……あ。はは……」
といった具合に情けなく笑う事。
そして、そそくさとその場から立ち去る事。
この二つだけ。
――思えば当たり前かもしれない。
なんたって、元々部活動が盛んなこの高校で、毎日のように放課後図書室に通う生徒なんて、私くらいだろうから。
十六歳。女子高生。夜露冥。
内気で地味で眼鏡で、おまけに陰気な名前を持った私らしい、根暗なマイブーム、なんてね。
……はぁ。
力無い私のため息は、誰に聞かれるでもなく、空虚な廊下に消えてゆく。
***
「……な、何してるんですか……?」
図書室での一件で火照った頬が冷めた頃。
廊下を歩いていた私の視界に、保健室の先生の姿が映った。
若くて美人と評判の……確か佐藤先生だ。
――いつもだったら、軽く挨拶をして通り過ぎただろう。
でも今日は、つい声をかけてしまった。
だって私が通りがかったこの場所は、保健室でもなければ職員室でもなく――《生物準備室》の前だったから。
なんでこんな所に?
怪訝な顔の私とは対照的に、私に気付いた佐藤先生は穏やかな面持ちで口を開く。
「あら。あなたは確か、一年の夜露さん?」
「!!」
またも名前を言い当てられてしまった!
面識がある間柄でもないはずなのに……。
驚きを隠せない私の様子に、佐藤先生はくすくすと笑うと、すぐに種明かしをしてくれた。
「私、図書委員の顧問もやってるの。
評判なのよ、あなた。毎日のように図書室にやって来て、貸出時間のギリギリまで今日の一冊を探している本の虫だって」
ええ!? そんな噂になっているの!?
……恥ずかしい。
思わぬ注目を浴びている事を知って意気消沈する私。
そんな私を見かねてか、佐藤先生は慌てて続けた。
「ごめんなさい! 褒めてるの! それに、みんな喜んでるのよ!」
……喜んでる?
「このままだとあっという間に図書室中の本が読破されちゃうから、新しい本を入れようって。
じゃあ次はどんな本を入れようかって、みんな生き生きとしてるの。
図書委員がこんなに活気に溢れてるのなんて、初めて」
「……」
「だからこれからも変わらずに通ってくれると嬉しいなぁ、なんて」
「……はい」
伏し目がちに小さく頷くと、佐藤先生の顔はパァと晴れやかなものになってゆく。
なんだろう。恥ずかしいのに、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
「そうそう、私がここで何をしてたか、だったわね。
実は……これ!」
生物準備室から半身を覗かせていた佐藤先生は、本題に戻るようにそう切り出す。
そして室内から何かを引っ張り出してくる、のだが。
それを見て、私はギョッとした。
――それは《人体模型》だった。
男性を象ったそれは、半身だけ皮膚がなく、筋肉が剥き出しになっている。
さらに胸部から腹部にかけては、あらゆる臓物が丸見え状態になっている。
まあ、所謂のやつ。
正直なところ、見ていてあまり気持ちの良い物ではない。
思わず視線を逸らそうとした、のだが。
「あれ? それ、《肺》が……」
言いかけた私の言葉の続きを佐藤先生が補う。
「そうなの。《右の肺》が無くなっちゃってるの。
この人体模型、臓器が取り外しできるのはいいんだけど、だいぶ古いやつだから、色々と緩くなっちゃって。
どこかで落として見つからなくなっちゃったから、処分して欲しいんだって。
生物の田中先生から頼まれちゃって」
へえ。でも、何でわざわざ佐藤先生が?
と思ったが、どうやら声に出さずとも、私の疑問は丸わかりだったようで。
「田中先生、先週階段から足を踏み外して、今入院中なの。
この人体模型を《処分しようと運んでた時》だったらしいんだけど……」
――刹那、私の脳裏を《嫌な予感》が駆け抜ける。
予感というにはあまりに確実な、何か良からぬモノの気配。
「だから代わりに処分を頼まれちゃって。
普通、女性にやらせる? ちょっと信じられないわよね。
まあ、断れなかった私も私だけどさ」
「……先生。それ処分するの、ちょっとだけ待ってもらえませんか?」
「え?」
「せめて明日。明日まで待ってください」
「別に、今日は一階に下ろすだけのつもりだったからいいけど」
「今日はまだそこに置いておいてください!」
「……わ、わかったわ」
少し引き気味な佐藤先生の返事を聞いて、私はぺこりとお辞儀をした。
「じゃあ、失礼します」
慌ただしくその場から去ろうとする私に、佐藤先生は訊ねてくる。
「部活?」
「いえ、帰ります。……《タイカイ》があるので」
「あら、そう? 気をつけてね」
「……大会があるから帰る?」
私の背中を見送る佐藤先生は首を傾げていたらしいけど、それはもう私の知らない話。