わたしの国
ルナティエッタの朝は早い。
皮膚を何かが撫でていくような、さわさわざわざわする感触に勝手に目が覚めるのだ。不快感はない。ないが、じっと寝ていられなくなる。
なんだろうなこれと疑問に思ったルナティエッタに、その答えを教えてくれたのは本棚の魔女たちだ。
『光が差し込むと肌がざわつく。闇が訪れれば心地良い。魔導力が活発になる頃を人は朝と呼び、魔導力が寝静まる頃を人は夜と呼ぶのだ』
大きな文字でお行儀よく整列した文字を書く魔女を、ルナティエッタは「上品な魔女」と呼んでいる。彼女の書く術式はシンプルで美しいところがルナティエッタのお気に入りだ。
ルナティエッタは顔を上げて部屋を見上げる。
ルナティエッタの頭の上の上、ずうっと上の方にある四角い穴、のさらに柵の奥から光が降り注いでいる。
この壁の向こうにはとてつもなく巨大な「太陽」なるものがあり、そこからこの光がやってくるらしい。
ルナティエッタにそれを教えてくれたのは「楽しい魔女」だ。彼女の記した魔法ときたら、椅子が踊る魔法だとか本が歌う魔法だとか、使い所のわからん魔法ばっかりで、使うとなんだか楽しい気持ちになる魔法ばっかりだった。ルナティエッタは、「歌」とか「踊り」とか「楽しい」とかいう言葉を教えてくれたその魔女の書いた本が好きで、時折取り出しては一枚一枚丁寧にページをめくった。
本が踊るように書かれたその文字は、本棚にぎっしりとつまった魔女たちの本は、ルナティエッタにあらゆることを教えてくれた。
太陽なんて見られない限られた世界。
隔絶された世界。
けれども世界は無限であることを教えてくれた魔女たちが、ルナティエッタは大好きだった。
「ルネッタ」
がつんと頭をぶん殴られたみたいだった。
空だ。
魔力をたっぷり含んだルネッタのお気に入りの花みたいな水色に、ふわふわしていそうな真っ白の雲。どこまでもどこまでも広がる、続く、空だ。広さに目が眩むような、瞬きすれば消えっちまいそうな、嘘みたいな空。
す、と息を吸えば、空気が魔力が身体に満ちていく。
「あっはははは自分の婚約者を高々と掲げる国王がどこにいんだよ!!!!」
「陛下!!! ルナティエッタ様は幼い子供ではございません!!!!」
賑やかな声に振り返ると、渓谷も「谷って名乗り続けてオーケイ?」って不安になっちゃうんじゃないかしらって深あい皺を眉間に刻みこんだヴァイスが、ルネッタを見上げている。
大笑いしているトゥレラージュも肩を掴むシャオユンも、微塵も気にした様子がない。
ただ、ただただルネッタを見上げている。
「お前がいるのは、俺の国だろう」
この男はルネッタを殺すつもりかもしれない。
身体を貫くほどに鋭い紺色の眼差し、髪の毛一本からつま先まで掌握するような重たい声。
心を握りつぶすようなそれは、ルネッタを苦しくさせる。息もうまくできやしない。手足が痺れるほどに苦しくって叫び出したい。暴れ出したい。
──なのに、どうして。
どうしてだろう。嫌じゃない。すこっしも、嫌じゃないんだ。
何度も何度もルネッタを苦しめる眼差しは、声は、言葉は、ルネッタのなかに降り積もった分だけルネッタの心臓をぎゅうぎゅうと痛めるのに。
ずっとこの痛みを感じていたい、とすら、ルネッタは思う。
「違うか」
違やしない。
身体の中で行き場を見つけられぬ痛みの名は知らぬけれど、それだけは確かであった。
いっそ悔しくなるほどに、この男の言葉はいつだってルネッタにとって正しいのだ。
ルネッタは、ヴァイスの手を握る。
自分を軽々持ち上げてしまう大きな手のひらに手を重ねて、ルネッタは濃紺の瞳を見返した。
「へーかのいるところが、私の国です」
立派なお城じゃなくたって良い。ふかふかのカーペットも、大きな窓もいらない。荒れ地だってかまやしない。
不機嫌そうな顔をして、「楽しい」を探し集めることが得意な男の隣こそが、ルネッタの国だ。
まあ、同じように考える愉快な人間が集まるだろうから、ヴァイスの国は結局、豊かに栄えることだろうけれど。
それはとってもとっても、楽しいことだ。
そう思うと、ルネッタのほっぺに何やら力が入る。ふや、と口の端が上がっていくままに委ねると、もっと楽しい気持ちになってルネッタは目を細めた。
「わ、わら……!!!!」
藁? え、藁?? トゥレラージュがぷるぷると震え始めたのでルネッタが瞬く。と。
「ははっ」
「!」
ヴァ、ヴァイスが! 声を上げて笑った!
子供みたいに眉を下げて笑うそんな顔を近くで見たのは初めてで、ルネッタの心はまたぎゅうと音を立てた。なんだ? 本当になんだろうこれ?? どくどくと、どくどくと、心臓が躍動する音がする。
は、と息を吐くと、笑いを収めたヴァイスと目が合った。
かちり。
音がするように、視線が合って、にやりと引き上げられる口元といつもの眉間の皺を、見ていたいのに、目を反らしたくなる。見ていたいのに、見られていたくない。
──わたし、どうしたんでしょう。
無性にでっかい魔法をぶっ放したい衝動に駆られるが、んなことできるわけもない。
「……お前」
「?」
きゅうと目を閉じると、ヴァイスが息を吐くように小さく名前を呼んだ気がした。
ヴァイスに名を呼ばれるとほとんど反射で答えてしまうルネッタは、目を開ける。
──あれ?
ルネッタは首をひねる。
意思のかたまりみたいな眉に、その間の皺。片方だけ口角を上げる薄い唇。どれもいつも通りなのに。
へーか、困ってる……?
そう思ったのは、けれどほんの一瞬だった。
次の瞬間には、ヴァイスはいつもどおりの顔でルネッタを地面に下ろした。
とん、と地に足がついたところで、ぐりぐりと頭を撫でられながらルネッタはヴァイスを見上げる。
「終わりですか」
「俺は紳士なんでな」
紳士。
紳士……? 紳士とは。
「紳士ってなんでしたっけ」
「うははっはははルネッタ超ナイスなツッコミ!!!!」
ツッコミを入れたつもりなんぞないルネッタは、腹を抱えて笑うトゥレラージュとそんなトゥレラージュを蹴り上げるヴァイスをぽかんと見るしかない。おいてけぼりな気がして淋しいとか、思ってない。べつに。む、と眉間に力が寄るのは、ほら、まあ、不可抗力だ。
「ルナティエッタ様」
なんとなく頭に手を乗せたルネッタに気づいたようで、ふいにシャオユンが身をかがめる。さら、と揺れる髪を耳にかけた。
「紳士とは、風格があり上品で礼儀正しい男性のことですよ」
物を知らぬルネッタに、シャオユンはこうして時々こっそりと知恵をくれる。
ルネッタが一人ぼっちにならないようにと気を配ってくれる優しい緑の瞳に、ルネッタは頷いた。
「シャオユンみたいな人のことですね」
「うっ……!!!!」
シャオユンは胸を押さえ、ぎゅうと目を閉じて呻いた。
いつも水が流れるように落ち着いているシャオユンは、けれどしばしばこのように不思議な振る舞いをしてみせた。慣れてきたとはいえ、その理由がわからぬルネッタは首をひねるばかりである。
そういえば、ヴァイスとの旅で出会ったお姫様のような女の子と騎士が、時折同じような顔をしていたなあとルネッタはふと思う。だからどうだ、という話だけれど。
まあともかく。
ルネッタは自分が生まれた国に久方ぶりに足をおろしたわけであった。
そんなわけでルネッタの過去を巡る旅のスタートです。
先週は体調を崩して投稿できなかったので、この後もう一本投稿します!