名前を呼ぶ声5
連続投稿中です。読み飛ばしにご注意ください。
「……ルネッタ」
落ちていく涙を拭う手の大きさに、息が詰まる。
何一つ聞き逃したくないと思うのに、何も聞きたくないと願う。
ちぐはぐでとっ散らかっている、乱雑な感情と思考に飲み込まれていくのが心底不愉快で、もう無茶苦茶に暴れてやりたい気分で、ルネッタはヴァイスの手首を握った。指がまわりゃしない、太くて熱い手に、ばらんと涙が溢れていく。
「お前の気持ちは嬉しい。魔法しか頭にねぇお前が、俺を好きだと泣く顔を見るのは、そうだな。胸が痛むが、嬉しいよ。健やかに育ったと実感する」
「っ」
ああ、ああ、なんてお優しい王様だろうね! 万人に等しく降り注ぐ博愛が、こんなにも苦しいだなんてルネッタは知らなかった。ヴァイスがルネッタに与えるものは、ルネッタの知らないことばかりだ。なんて有り難いんでしょう。
なんて──得難い人なんだろう。
「俺みてぇなおっさんの前で立ち止まるな」
く、と笑うその顔が何を思っているのか。ルネッタにはわからない。あの日あの窓の前に立っていたときと比べりゃ、ルネッタは「健やかに育った」んだろう。なにせ王様のお墨付きさ。
だけども結局は恋を知ったばかりの子どもなのだと、ヴァイスの笑顔はルネッタを突き放す。
「お前にはお前に似合いの誰かがきっといる」
うるっせえよな。まったく冗談じゃない。それを決めるのはルネッタだ。ヴァイスじゃない。ルネッタはヴァイスが良いって言ってんだからさ。いつもみたいに「そうか」って頷いてくれれば良いじゃないか。簡単だろ。ルネッタはただ笑ってほしいのだ。あの二人に向けたみたいに、なんでもないヴァイスの顔で笑ってほしいだけなのに。
それはできないと。そう仰るわけだ。ははあ、なるほど。なるほどね!
「わかりました」
ルネッタは、勢いよくヴァイスの手首を振りほどいた。
「よーーく、よーーくわかりました。はい、わかりました。私は子どもです。馬鹿で無知な子どもですよ。はいその通りです」
ルネッタはぐいと涙を乱暴に拭う。その両手で、ヴァイスの胸をどんと押した。よろめきもしないんだこの男。反対にルネッタの方がたたらを踏み、腕を引いて支えられてしまう。ルネッタは、ふんとその腕も振り払ってやった。
「おい、そこまで言ってねぇよ」
「言ってます。言ってますよ。いえ、言ってくれれば良いんですよ。ガキのお守りは飽き飽きだって」
「口が悪ぃなあ」
「誰のせいですか!」
もう知らない。知ったことか。ヴァイスがルネッタを突き放す? 上等だコラ。嫌だ捨てないで、なあんて泣いて縋って、ああ恥ずかしいったらない。ばっかみたい! 一国の王が、小娘一人の涙で動くものか。最初っからルネッタを隣に置いて生きる気がないヴァイスを、やすい涙で変えられるわきゃねえんだ。
そんな甘い男でないことくらい、ルネッタは知っているはずなのに、いやはや恋ってのは恐ろしいな。
ヴァイスがルネッタを拾ったのは、ルネッタがヴァイスにとって「おもしろい魔道士」だったからだ。
ヴァイスの城にはそうやってヴァイスが「おもしろい」と集めた人材が活き活きと働いている。つまりはそういうことだ。
ヴァイスを動かせるのは湿っぽい情愛なんかじゃない。
「おもしろい女になってやります!!!」
「待て。なんだって」
余裕ぶった顔が崩れたのを見て、ルネッタは鼻で笑ってやった。
「俺のそばにいてくれって、お前を手放せないって、泣いて縋らせてやります」
「は?」
これは戦争だ。
ルネッタだけのヴァイスを手に入れるための、ルネッタの一世一代の大戦争だ。さて、相手は簒奪王と名高い戦のプロなわけだが、魔女のルネッタに勝算はあるんだろうか。なんて。いやあ、最高だね。全然、まったく、ちっともちょっとも、勝てる気がしない。大敗北だろうよ。まいったね! いっそ笑え。笑っちまえ。
「へーかなんか」
びしぃ! と指を突きつけて、笑って、愛を叫んで、そうやって生きていこう。
「大好きですよばーーーーーーか!!!!」
そしてルネッタは走り出した。
「あ、あははははっはははははげほっちょ、ま、あはははははげえっっっほ」
魔法は使わずに自らの足で走りだしたルネッタを、トゥレラージュがゲラゲラと笑いながら追いかけてくる。楽しそうで何よりだ。ルネッタはなんにも楽しくないけど。
「る、るねった、さまぁ!」
切れ切れに自分を呼ぶルイラの声に我に返り、ルネッタは足を止めた。
振り返ると、でっかい声で笑い続けているトゥレラージュの隣で、ルイラがふらふらとその場に崩れ落ちた。
「る、るいら、ごめんなさい、だいじょおぶですか」
体力の消耗具合はルネッタも似たようなものだった。切れ切れに問いかけると、ルイラは親指を立てる。なんとか生きてはいるらしい。良かった。
「い、良い宣戦布告だったよルネッタ。お兄ちゃんは、誇らしい」
トゥレラージュもまた切れ切れに言うが、勿論こちらはお元気だ。まーだ笑いが引かないらしい。失礼しちゃう。ルネッタは必死なのに、それを見て笑い転げる兄の姿に思うところがないわけではないが、よしよしと頭を撫でられたのでちょっと良い気分になるルネッタであった。褒められるのは嬉しい。いや褒められてんのかしらこれ。
「思い切り走ってどう? ちょっとはスッキリした?」
汗で張り付くルネッタの髪を丁寧に耳にかけて、トゥレラージュはにこりと笑う。ようやくいつもの優しくて綺麗なお兄ちゃんに戻ったトゥレラージュに、ルネッタはこくりと頷いた。トゥレラージュは「良いね」と軽やかな声を上げる。
「で、とりあえずついてきたけど、どうするのルネッタ。城に戻る?」
「いいえ。このまま旅に出ます」
「ルネッタ様?!」
ルイラは聞いたことがないほどの大きな声を上げて驚いたが、トゥレラージュは動じない。まるでわかっていたかのような顔にルネッタが首を傾げると、トゥレラージュは「そりゃね」と肩をすくめた。
「外の世界を知らないって言われたら、じゃあ見てきてやんよ! って。俺でもそうするわぁ」
「お兄ちゃん!」
いつでもどこでも笑顔でついてきてくれる兄は、ルネッタの味方だったらしい。病気かなってくらい笑い転げやがるので、危うく腹を立てちまうところだったルネッタは、嬉しくなってトゥレラージュに両手を伸ばす。ルネッタの小さな手をぎゅっと握ったトゥレラージュは、口の端をゆったりと上げた。
そして膝をつくと、柔らかい眼差しでルネッタを見上げる。
「ルネッタがどんな道を歩もうと、私は君の兄であり騎士だ。どうかお供させておくれ」
指先に落とされた小さなキスに、ルネッタの口から「ひゃあ」と素っ頓狂な音が漏れた。
「お兄ちゃん、絵本の王子様みたいです」
「騎士だってば」
あはは、と軽い調子で笑いトゥレラージュが立ち上がる。ルイラを振り返るのにつられてルネッタが見やると、ルイラはしょんもりと眉を下げていた。まるで鏡に写したルネッタみたい。
「ルイラ、その、私……もともと、旅に出るつもりだったんです」
神を探さなくてはならない。
そのためには、城を出る必要があった。まさかこんな勢い任せに飛び出すつもりはなかったけれど、まあ、「いつか」が「今」になっただけだ。神なんかよりもっとずっと大事な目標もできたことだしな。
どんな?って無論勿論、おもしろい女になってヴァイスを泣かすという偉大な目標だ。ヴァイス基準なので「おもしろい女」がどういうモンかは、ルネッタはちょっとよくわかってないんだけど、それは置いておこう。
「すごい魔女になって帰ってきます」
とりあえず、知らない魔法をたくさん見て味わって、世界一の魔女を目指してみるのもいいかもしれないとルネッタは思っている。だって世界一だぞ。ヴァイスも喜ぶに決まっている。ヴァイスの驚いた顔を想像するとルネッタはワクワクしてくるわけだが、心配性のルイラになんと言えばいいのか。
いつもルネッタを心配してくれるルイラを傷つけないように、怒らせてしまわないように、ルネッタは言葉を探した。
「えっと、だから」
「……大丈夫ですわ、ルネッタ様」
ルイラは、そっとルネッタの髪を撫でた。
「お帰りをお待ちしております」
生粋のお嬢様であるルイラは旅に不慣れだ。高価な馬車で移動する上品な旅ならともかく、ルネッタがそんな目立つ旅をするつもりがないことをルイラはわかっている。ぞろぞろと護衛を連れて歩くのも勿論却下だ。だってそれじゃヴァイスの庭から出たことにならないからね。んじゃトゥレラージュは良いのかって話だけども、彼はヴァイスの部下である以前に今やルネッタの家族であるからして。本人が良いつったら良いのだ。
とはいえトゥレラージュにあまり負担をかけるわけにはいかない。自分の身は自分で守れる自信はあるが物知らずのルネッタと、市井には疎いルイラの二人を護衛しろとはさすがのルネッタも、そしてルイラも言えなかった。
「怪我をしないでくださいね。病気もいけません。好き嫌いせずに三食きちんと食事をして、おやつも召し上がること。それからお風呂上がりはしっかり髪を乾かして香油をつけた後……」
「あ、あう」
とめどないルイラの言葉にルネッタはなんとか頷く。頷いているだけでもう半分も覚えていないっていうか理解できちゃおらんのだが。長い詠唱を覚えるよりも難しいルイラの言葉にトゥレラージュは再び笑い出した。
「それくらいにしてあげてよ。大丈夫、俺は旅もお洒落も上級者だよ」
ぱちん、とお得意のウィンクをかましたトゥレラージュに、ルイラは重たい溜息をつく。目を伏せて、乱れた髪を耳に欠けると、ぐいとトゥレラージュを見上げた。
「信じますからね」
「違わぬさ」
静まり返った部屋に放り出されると不安な気持ちになるように、トゥレラージュの整った相貌は静けさを纏うと怖い印象になる。気圧されるようにルイラは肩を震わせたが、ぐっとトゥレラージュを見返すと、にこりと笑った。
「お二人のご無事のお帰りをお待ちしております」
淑女らしい美しさと、ルイラらしい優しい微笑みで、ルイラはスカートをつまんだ。深くゆっくりと腰を落とすルイラに、ルネッタもスカートを持ち上げる。頭は下げない。軽く膝を曲げて、口角を上げる。
かつてこの国にいた時、ルネッタはカーテシーの意味なんて考えたこともなかった。そもそもあの部屋でひっそりと死んでいくつもりだったルネッタの人生に、淑女の礼なんて不要だもの。
だけど、未来は一変した。
ヴァイスの手によって、ルネッタの手によって、ルネッタの未来はあの小さな部屋の外に広がった。
ルネッタの未来はもう、どこにも記されていない。誰にも決められない。
ルネッタ自身が歩いていく道だけが、ルネッタだけの現在で未来だ。
「吠え面かかせてやります」
「期待しております!」
「うちの国の女の子強ぇな最高」
嵐のような恋とともに、いざゆかん!
というわけで、ルネッタが恋を自覚するお話でした。
ラスト1話、エピローグで終わりです。
最後までお付き合いいただけましたら幸いです。




