名前を呼ぶ声4
滑り込み(できなかった)2回目の更新です。
読み飛ばしにご注意ください!
きっとずっと、少しずつ降り積もっていた。
自分でも気付けないくらいに、少しずつ、ゆっくりと、ヴァイスの優しさはルネッタの中に降り積もっていた。
きっと、初めて目が合ったあの日からずっと。
「へ、へーか、私、私」
「落ち着けルネッタ」
な? と柔らかい声が降ってくる。
両手でルネッタの頬を挟んで、上を向かせたヴァイスは仕方がないなあって顔でゆるく笑っている。ルネッタを小さな子どもくらいにしか思っていなそうな、優しいその顔がルネッタは悔しいのに好きだと思う。今までどうやってヴァイスと向き合っていたのかがわからないくらいに。
長い黒髪。
濃紺の瞳。
眉間の皺。
不愉快そうな眉。
偽悪的な口元。
「すきです」
全部、全部好きだ。
自分の中にヴァイスへの好意が降り積もって、手に負えないほど大きな山になっていると自覚した今、ルネッタの心はもう滅茶苦茶だった。恋に押しつぶされてしまう。
「ルネッタ」
ルネッタを呼ぶ声はとても優しい。
そこにルネッタと同じような感情はないのだと、世を知らぬルネッタにでも嫌と言うほどわかる、優しい、優しいだけの声。
「ありがとな」
「っ」
ヴァイスの言葉はいつだってルネッタの小さくて不安定な船の操舵者であった。ヴァイスにくっついてりゃ、どこにでも行けた。そこはいつだって素敵な場所だった。
言わないで、なんて。ヴァイスを前に、そんな風に思ったのは初めてだった。
「でも、それは駄目だ」
口は悪いし態度も悪い。足グセが悪いし、まあ手もよく出てるな。ヴァイスに王様らしい高貴さなんてありゃしない。だけど迷いのない真っ直ぐな瞳は、いつだって王様らしい威厳と鋭さを放つ。
その光が、ルネッタの心を貫いた。
「お前はまだ窓を開けたばかりだ」
「っ」
そう、そうだ。あの日、あの日ルネッタの心臓は大きな音を立てた。
生まれて初めて見た「窓」を開けたあの日だ。
王の婚約者という、これまでの人生とのあまりに大きな乖離で眩暈がしそうなそんな立場を得たルネッタは、馬車に乗せられ旅に出た。
生まれて初めて見る景色、生まれて初めて感じる空気、生まれて初めて食べるものばかりの旅路は、揺れる馬車の振動すら楽しかった。ふわふわのクッションにも感動して、優しく声をかけてくれるフェルのキラキラした顔面になれるのはちょっと時間がかかった。
忘れられるはずもない。
ヴァイスがルネッタを見つけてくれなけりゃ、永遠に手にすることはなかっただろう思い出の旅だ。
しばらくは馬車で寝泊まりする日が続いたが、「国境を超えたな」とヴァイスが欠伸をしたあと、ルネッタはこれまた生まれて初めての体験をした。まあ、宿屋に泊まったってだけなんだけど。何せ城の外どころか部屋の外にすら出たことがなかったんだから、ルネッタは立派な部屋にも大層驚いた。
ルネッタが生まれ育った部屋よりも大きくて、今のルネッタの部屋よりずっと小さな客室は、大きな窓から差し込む光で眩しいほどに輝いていたのだ。白くて薄いレースのカーテンなんて、あまりの綺麗さに触っていいのかしらって躊躇っちゃったもんね。
思わず振り返った先でヴァイスが不思議そうに首を傾げるので、触って良いものらしいと気付いたルネッタは緊張したこともよく覚えている。ゆっくりと触ったカーテンが、ルネッタの着ていた黒いドレスの何倍も繊細だったその感触も指に残っている。
それから、窓を開けた、あの瞬間。あの瞬間の喜びを、どうすればヴァイスに伝えられるだろう。
「窓って本当にあるんですね」
ルネッタが「窓」を見たのは、あれが初めてだった。だって、ルネッタの部屋には窓なんて無いんだもの。手が届かないところにある鉄格子がはめられた穴からじゃ、お外の景色なんて楽しめない。
「本の中だけだと思っていました」
本当に当たり前に存在するんだなあと、あの衝撃はなんと言い現せば良いのだろう。ヴァイスの城でたくさんの本を読んでたくさんのものを得た今も、ルネッタにはわからない。
興奮、感動、慟哭、閃光? うーん、どれもしっくりこない気がするし、どれも正解な気がする。とにかく、すごい衝撃だった。
客室は階段をいくつか登った先にあって、だから広い空を眺めることができた。
遠く遠く、ずうっと向こうまで続いている空。家並み。笑い声。髪を揺らす風。パンや花の香り。身体に触れる面積全部で感じる、広い世界の入口にルネッタはただただ圧倒されていた。
「窓で満足すんなよ」
ヴァイスは、気づけばルネッタのそばに立っていた。
体温を感じるほどすぐそばに、ルネッタの隣に、ヴァイスが立っている。
不思議だ。
そうだ、ルネッタはあの時たしかに、それを不思議に思った。
誰かが自分の隣に立っていることに、窓の向こうの景色よりも心が震えていることを。
「ここからの景色も、ここから先の景色も、お前のものだ。世界は誰のものでもねーが、誰のものでもある」
ああ。なんということだろう。ヴァイスが落とした謎掛けのような言葉の意味が、あのときわからなかったあのヴァイスの言葉が、今のルネッタはわかる。わかってしまう。
「お前は何処へでも行けるし、何にでもなれるんだからよ」
なんて眩しい横顔だろうと、呑気に見上げていた自分の頭を殴ってやりたい。
あの瞬間、ヴァイスの凛とした横顔にどうしようもなく見惚れていた、あのとき。
涙の流し方を知っていたなら。
ルネッタは泣いていたかもしれない。こうやって、ね。生まれたての赤ん坊みたいに。
「へーかは、私と結婚する気なんて、なかったんですね」
操舵者なんてとんでもない。
ヴァイスはいつだって、隣に立っているだけ。それだけだったんだ。ひどい。本当にひどい。ルネッタの背を押して、送り出して、いつでも帰ってこいよ、なんて笑うんだろ。あっけなく。あっさりと。当然だろって顔でさ。
ルネッタが世界で一番信じている大人は、ルネッタの手を握ってはくれはしない。
それでも、だけど、だから。
そんなヴァイスだから、ルネッタは恋を知ったのだ。