名前を呼ぶ声3
連続投稿中です。読み飛ばしにご注意ください。
「恋」
生れて初めて聞いた単語を飲み込むように、ルネッタは呟いた。
いや、当たらずしも遠からずっていうか。概ねそんな感じよねっていうか。
だって、恋。恋だって。ルネッタが、恋。「好き」という感情さえようやく馴染んできたところなのに、恋ですって! 未知の領域過ぎていっそ恐怖を覚える。
「こい」
あまりの衝撃にもう一度呟くと、ソフィは眉を下げて笑った。
「わたくしが言ってしまうのはどうかと思うのだけど……でもねルネッタ、ヴァイスといる時のルネッタって本当に可愛いの! あ、もちろんルネッタはいつも可愛いけれど、なんていうか、胸がきゅうんってする可愛さなの!」
どうしよう。ルネッタは、ソフィの言っている事がひとっつもわからんかった。ルネッタがいつも可愛いというのも意味がわからないし、「きゅうん」っていうのもわからない。ぱちぱぱちぱち。拍手、ではなく瞬きを繰り返してしまう。ソフィは「それでね」と頬に手を当てた。
「その……わたくしも最近知ったのだけれど……好きな人が自分の知らない話で楽しそうにしていたり、他の女性と笑っている姿を見ると、胸がモヤモヤするものらしくって、えっと、恋ってね、嫉妬とセットみたい」
「しっと」
これまた耳慣れない言葉である。いやいや、ルネッタとて「嫉妬」という言葉の意味は知っているぞ。あれだろ。誰かをすっごく羨ましいと思ったり、ずるいと思ったりする、なんかそういうやつ。どうにもならないことで誰かに良くない感情を向けるのってどうなのかね、ってそういうアレ。あれ?
どうにもならないことで、なんか一人でモヤモヤしているのって誰だっけ??
「……私、シャオユンに嫉妬していたんですか?」
「うーん、わからないけど……わたくしには、そういう風に聞こえたわ」
ソフィは、へにゃん、と申し訳なさそうな笑みを浮かべる。
ルネッタはずがーん!と雷が脳天にブチ当たったか如く衝撃を受けた。
なんで私のことなのに私に教えてくれなかったのなんでシャオユンは知っているのずるい!! と駄々をこねたいところを一応は我慢してそうやって出てきたのがモヤっとさんって、つまりはそういうことではないか。
「あ、わ、わ、あ」
かあ、と一気に体温が上がって、ルネッタは熱い頬に両手を当てる。
「あわわあわ、わ、わかるわルネッタ! 恥ずかしいわよね?!」
ひいんと可愛らしく悲鳴を上げるソフィにルネッタはこくこくと頷く。恥ずかしい。居た堪れない。真っ赤になるソフィと同じくらい、いやそれ以上に、きっと自分の顔は真っ赤だろう。
「わたくしも思わず窓から飛び出したくなってしまったもの!」
なんて?
ルネッタにとって淑女のお手本のようなソフィが窓枠に足をかけているところを想像してしまったルネッタは、一気に我に返った。ソフィがそんな奇行に走るなんてあり得ない。きっと動揺するルネッタに合わせてくれているのだ。なんて優しいのだろう。ルネッタもいつか、こんなふうに誰かを気遣うことができるようになるのだろうか。
「ありがとうございます、ソフィ」
いつかはソフィのように、自分の感情と冷静に向き合える女性になりたい。
決意を胸に抱き、感謝を告げるルネッタにソフィは瞬いた。
「え?」
「私、元気でました」
「ほ、ほんと?」
はい、とルネッタは頷く。
ヴァイスに恋をしている自分なんてぇのはね、いまひとつピンとこないが。シャオユンに嫉妬しちまったって恥ずかしい自分なら、理解できてしまった。なんで私だけ! ってつまりはお子様ってことだもんな。ルネッタは自分が物知らぬ子どもであることなら自覚しているのである。
「大人の女性を目指します!」
「まってルネッタなんだかその決意は違う気がするわ」
「?」
なんてやりとりが会ったのが昨夜。いやはや。ソフィの言うとおりであった。違ったな、これ。
やっぱりソフィはすごい、とルネッタは胸を抑えた。
ふわふわと可愛い女性と、笑顔全開で楽しそうに話すヴァイスの姿に、ルネッタの心はモヤッとさんでいっぱいになんだもの。
心の中で踊って転がって大暴れするモヤっとさんの正体が、ソフィの言う「嫉妬」であることをルネッタは認めなければならない。
同時に、これが恋であるというソフィの声を否定できなくなる。
「ルネッタ?」
俯くルネッタに、聞き慣れた、聞き慣れてしまった声が呼びかける。
「どうした」
近寄ってくる気配に顔を上げると、機嫌の悪そうな顔がルネッタを見下ろしていた。眉間の皺を増やして、目を細めて、怖い顔。でもルネッタはそれが、自分を心配する顔だって知っている。
怖くて優しい顔がルネッタだけを見て、ルネッタの名を呼んでいる。
ルネッタの胸がぐうと苦しくなった。
「なんだお前、体調が悪いのか」
「ちがい、ます」
体調不良なら良かったのだ。薬を飲んで魔法をかけてベッドに潜ってりゃ、明日には元気なルネッタだ。なんて素敵。ああ、とルネッタは思う。なんにも知らない頃のルネッタに戻りたい。ヴァイスの用意してくれた部屋で、ただ朝日を眺めるルネッタに戻りたい。
「アリィ」
「うん。またね、ヴァイス」
振り返り、親しげに名を呼ぶ声にすら耳を塞ぎたくなって、ルネッタは辟易する。名前をつけた途端、いよいよもって図々しい態度に出てくるモヤッとさんを叩き潰してやりたい。
アリィと呼ばれた女性は、そんなルネッタなんて知る由もなく、可愛い笑顔で手を振っている。ルネッタは申し訳無さとモヤッとさでぐちゃぐちゃなまま頭を下げた。
「ぎゃあ! 可愛い!」
「!」
え、悲鳴を挙げなかった? 今。あまりの大きな声に、ルネッタの肩がびくりと跳ねる。一緒にいた男性は「失礼しました!」と頭を下げると、女性を引きずっていく。え、すごい。ずるずるいってる。インパクトでかすぎる退場であった。
「い、良いんですか」
「あ? アリィか? 仕事の途中で立ち寄っただけだからな。どっかから俺がいるって聞いて来たんだろ」
いやそうでなくて。
「引きずられてます」
「あいつ、ちっさいものが好きなんだよ。ジェス──相棒にああやって引きずられねーと動かねぇんだ」
服の襟を持たれているのに、苦しくないのだろうか。両手を振って楽しそうにしている。
さっきまでのふわふわとした可愛い印象がどんどん小さくなっていく姿がなんとも言えなくて、ルネッタは小さく手を振り返してみた。
「きゃー! 動いた! 手ぇ振ったわ!」
「そりゃ動くだろ生きてんだから」
「目が合ったわ!」
「変態が騒いでりゃ見るわそりゃ」
冷静にツッコむ男性の声はどんどん小さくなるのに、きゃあきゃあと高い声は全然小さくならない。どんな仕組みだろう。よくわからんが、それはそれとして。
「……へーか、楽しそうでしたね」
「あ? あー、まあな。あいつら、結婚すんだと」
「結婚」
頷いたヴァイスは、楽しそうに笑う。ルネッタがこっそり「可愛いな」と思っている、あの笑顔だ。
「長い事うだうだやってて、ようやくっつーからよ。式はいつだって聞きゃ、んな羞恥プレイするかって言いやがる。街中でも叫ぶし巨大モンスターは一撃で殴り殺すし、あちこちで注目浴びる変態が何言ってんだって話だよな」
ヴァイスは、くつくつと声を上げて笑った。
なんか凄いセリフが聞こえた気がしたルネッタだけど、珍しいヴァイスの姿で頭がいっぱいになる。なんだろう。ルネッタが知っている王様らしい顔と少し違う。そう、肩の力が抜けているような。そんな顔。
「へーか、嬉しそうです」
「まあ、付き合いが長ぇからな」
ふうん? 心のなかでモヤッとさんが首を傾げるのに合わせて、ルネッタも首を傾げる。ヴァイスは屈託なく笑った。
「俺がフラフラしてたときの仲間で、クーデターを起こすときに手ぇ貸してくれた仲間だ。今は二人で情報屋をやっててな。会うと色々と土産をくれんだ」
ルネッタがヴァイスと出会うずうっと前。ヴァイスが王になる前から付き合いがあって、ヴァイスが王になる手助けをした人たち。それでもって、今も尚、ヴァイスの力になっている人たち。
ということは、ルネッタの知らないヴァイスをぜーんぶ知っているわけだ。
あ。そうか。なるほど。
ルネッタは瞬きした。
つまり今ルネッタの前にいるヴァイスこそが、ルネッタが知らないヴァイスそのものなのだ。
王様という重責と重圧を背負う前、旅をしたり商売をしたり、ダンジョンに潜ったり、そういう「やんちゃ」をしていた頃の顔で、今、ヴァイスは笑っているのだ。
懐かしさに身を浸し、王冠がちょっとズレちゃったヴァイス。ルネッタの知らない二人が、ルネッタの知らない過去にヴァイスを戻してしまった。
ルネッタはもう、どこにも戻れないのに。
「っ」
モヤッとさんがダンスをし始めたので、ルネッタは眉を寄せた。
「? なんだその顔」
「しりません」
「は?」
知らない。知るわけない。
こんな煩わしい感情、知るわけがない。なんだよ恋って。なんだよ畜生。全然、ちっとも楽しくない。自分の手足が、自分のものじゃないみたい。視界が揺れて、息が苦しくて、どっかの誰かに締め上げられたって、こんなに苦しくなかった。ソフィはいつも「リヴィオ」って幸せそうに騎士の名前を呼んでいたのに、全然幸せな気持ちにならない。
こんなもの、いらない。
「好きです、へーか」
「は」
嘘だ。嘘だよ馬鹿野郎。苦しくて不愉快で気持ちが悪いれど。だけれど、ヴァイスに会ってからのルネッタはずっと幸せだ。毎日、毎日、温かい光の中にいる。
ヴァイスがいるから強くなれた。心細くても不安でも、「へーか」と呼べばそれだけで力が湧いてくる。
「あなたが好きです」
あなたがくれるならどんなものでも嬉しい。
溢れていった雫に、ヴァイスが目を大きく見開いた。初めて見るその顔に、ルネッタの心がぐしゃりと歪んだ。




