名前を呼ぶ声2
連続投稿です。読み飛ばしにご注意ください。
朝食だか昼食だかわからない時間の食事を終えたルネッタは、トゥレラージュとルイラを伴いとっとこ歩いた。こちらを伺うような視線は相変わらずだが、お天気は良いしトゥレラージュはニコニコしているのでルネッタはすっかりご機嫌なんだけれど。
「なんですかあれ!」
ルイラのご機嫌は急降下。真っ逆さまに墜落して爆発。ぷりぷりと怒るルイラにルネッタは思わず謝ってしまう。
ルネッタはあのうんざりするような視線を気にしちゃおらんが、見るならはっきり見てくれば良いのになあと思うし、こそこそと何やら言い合っているのを見るのは、まあ不快だよね。
「嫌な思いをさせてごめんなさい」
「まあ! まあルネッタさま! なんてことを!!」
がばりとルネッタの両手を握ったルイラは、眦をきゅっと釣り上げた。
「わたくしが根絶やしにしてやりたいのは、ルネッタ様に無礼を働くあの頭の悪そうな配色をした連中です! あーの、ど派手な頭とセンス悪いローブの連中が謝るならともかく、ルネッタ様が謝ることなど何一つございませんわ! いいえ、謝るならわたくしですわねルネッタ様申し訳ありませんわたくしにもっと力があれば……!!」
あればなんだ。何をする気だ。あと口が悪い。これって聞こえて問題ないやつ?
国と国はちょっとしたことで「言った言ってない」のトラブルになるんだってルネッタは教わっただが、はて。ルネッタより賢いはずのルイラが良いと判断したなら良いのかしらん。だってもはやここはヴァイス国だもんな。
ルネッタはルイラの圧に押されてちょっと後ずさる。
「ルイラは上手に髪を結んでくれます」
「ルネッタ様……」
いやしかし。ルイラが本気で国際問題を起こすとは思えないけれど、ルイラに「力」がなくて良かったとルネッタは頷いた。そんな物騒なもんより、するすると髪を結んでくれる指の方が、ルネッタの心を掬い上げてくれる声のほうが、ずっとずうっと凄いに決まっている。そのへんを歩いている阿呆の頭をパーンしたり腐った国をバーンしたりは、ルネッタにだってできるんだから難しいことじゃない。でも、誰かを笑顔にするのは大変だ。
「ルイラはすごいです」
「ルネッタ様!!!」
「あら」
ひしと手を握り合う二人は、間の抜けた声に顔を上げた。
眉を上げたトゥレラージュが、どっかを眺めている。ルネッタがその視線を追いかけた先では、ヴァイスが笑っていた。え? 笑ってる? 笑ってる。笑っているな。
いや、べつに。べつに、ヴァイスは笑わない男じゃない。というより、よく笑う方だ。眉間の皺は当たり前だし、口の端をニヤッと上げた意地が悪いものが多いけど、目尻を下げて笑うと子どもみたいになる。よく研いだ剣みたいな鋭さをしまってくしゃりと笑う顔は、ルネッタの胸をじんわりと温めてちょっとくすぐったくさせる、そう、なんだか可愛い顔になる。そんなにしょっちゅう見られるものではないので、たまに遭遇すると嬉しくなる。そういう、笑顔。
を。今。全開にしている。
一緒にいるのはフェルと、それからルネッタの知らない女の人。
背中にふわふわと下ろしている髪は薄いピンク色で、薔薇色の頬によく似合っている。妖精についてまとめた本の挿絵みたいに可愛らしいお顔には可愛らしい微笑みが乗っかっていて、花びらが舞っているように華やかだ。
「ヴァイスってほんと、変わらないのね」
ふふ、と楽しそうに溢れる声すら可愛い。可愛いものだけを集めてきゅうってまとめて魔法をかけてつくったみたいな可愛さだ。
すごいとわけのわからん感動に襲われたルネッタの心のなかに、けれどもアイツがまた顔を出す。呼んだ? って気安くルネッタに声をかけてきやがる、そいつはモヤモヤとルネッタの心に暗い影を広げた。呼んでねーーよ!
ああ、嫌だ。嫌だ。モヤッとさんの声も、こんなふうに心をかき乱される自分も、ルネッタは何もかもが嫌になる。
思わずドレスを握るルネッタの頭も中で、「気に病まないでね」とソフィは笑うけれど、無理だよ。無理。こんなものいらない。こんな自分、ルネッタは嫌だ。
ルネッタの心はいつだって、平坦であった。
怒りも恨みも悲しみも、遠くにおいやって随分と立つ。自分の中にそんなものがあることすら忘れるくらい、ルネッタの心は凪いでいたのだ。
なのに。
「ルネッタ」
呼びかけるヴァイスが、ルネッタの心に風を吹かせる。
凪なんてとんでもない。ルネッタの手の及ばぬ先まで遠い場所までいとも簡単に感情を連れ去ってしまうのだ。
「なんだ、どうした」
こちらに歩み寄ったヴァイスは、眉を上げるとルネッタの額に手を当てた。大きな手のひらが暖かくて優しいことが嬉しくて憎たらしい。なんて。ね。そんな感情、ルネッタは知らなかったんだよ。
だって、ヴァイスの庭は広くて心地が良い。どこにいてもヴァイスの存在を感じることができる、ヴァイスがつくりあげた庭には知らないことばかりで、毎日が楽しくて嬉しくて。誰もがルネッタを疎むことなく恐れることなく笑いかけてくれる。
今まで遠い場所にあった全てが、自分の両手に乗せられている。
幸福だ。これ以上ないほどの幸福を与えられている。
それで十分だったのに!
『ねえルネッタ、あなた、恋をしているんじゃないかしら』
紅茶の香りがする声を、ルネッタは否定できなかった。