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名前を呼ぶ声1

連続投稿中です。読み飛ばしにご注意ください。








 ルネッタ、と初めて呼ばれたのはいつだったか。

 短い音は自分の名前だと思えないほどにピカピカしていて、びっくりするほどに耳心地が良い。

 恐る恐る、それをなぞる。


「ルネッタ?」


 自分が呼ばれたことはわかっている。

 それでも、突然差し出されたなんだかとっても素敵なものへの触れ方がわからない。

 己のか細い声に、男は笑った。


「婚約者だってのに、ルナティエッタ王女殿下、ってのも堅っ苦しいだろ」


 俺はそういうのが苦手なんだ、とあくび混じりに男は言う。衝撃に震える小娘なんざ知らん顔で。そりゃそう。だって、きっと彼にとっては当たり前のことなのだ。

 なんにも持っていない、なんにも知らない、寄る辺のない自分とは違う。

 笑う声はとても軽い。羽ばたく鳥が舞う、広い空の下で地面を踏みしめる幸福を、何度でも教えてくれる声にルネッタは――――



「ルナティエッタ様?」

 

 むくりと起き上がったルネッタはぴしゃーんと固まった。なんと! なんと! 朝の気配に気づくことなく、ぐーすかと眠りこけていたのだ!!

 カーテンを透かす光で部屋はうっすらと明るい。ぴーちくぱーちく鳴く鳥はやたら楽しそうだ。


「おはようございます」

「おはようございます」


 にっこりと清々しい笑顔で挨拶をするルイラに返し、ルネッタは窓を見やる。

 ルイラが開けたカーテンの向こうで、お天道様が高笑いしていやがるのでとっても眩しい。いやあ、良いお天気だね。


「……寝坊しました」


 朝食はすっかり片付けられているだろう。

 肩を落とすルネッタに、ルイラはからからと笑った。


「お疲れだったのですよ」


 たしかに昨日はルネッタの脳味噌を揺さぶる出来事が満載であったけれど。


「寝坊したのなんて、初めてお城の部屋で寝たとき以来です……」


 国を出てヴァイスの城に到着した日、ルネッタは深い眠りに落ちた。

 軽い熱を出していたらしく、目覚めた時はもう夜で、自分がそれほど長い睡眠をとっていた自覚のなかったルネッタは「()()夜なのか」と驚いたもんである。

 あの日と違ってルネッタはピンピンしている。

 つまりは、人生初の寝坊であった。


「それは凄いです! わたくしが寝坊した回数なんて数えきれませんわ」


 おほほほ、と笑うルイラの手によって、呆然としている間にルネッタは身支度を済まされていた。

 わざわざ城から持って来てくれたのだろう黒いドレスは、腰のあたりから大きく膨らんだシルエットが特徴的で、首のすぐ下に大きなリボンがぶら下がっており、胸元には銀色の糸で刺繍が施されている。

 シンプルで動きやすそうなところが気に入ったルネッタがドレスの裾を揺らすと、高い位置に結われた長い髪がリボンと一緒に揺れた。


「今日もお可愛らしいです!」


 鏡に映るのは今日も元気に無表情なルネッタだけれど、ドレスは可愛いのでルネッタは頷いた。


「今日もありがとうございます、ルイラ」

「勿体ないお言葉ですわ」


 柔らかく笑うルイラと部屋を出ると、扉の影からトゥレラージュがひょっこりと顔を出す。トゥレラージュは騎士であり、ルネッタの護衛だ。つまりは朝からずっとルネッタを待ってくれていたのだ、と思うと申し訳なさにネッタは眉を寄せるが、トゥレラージュは朗らかに「おはよ」と笑った。毎朝新鮮な感情でびっくりしまうくらいに綺麗な微笑みを本日も惜しみなく晒している。


「おはようございます。寝坊してごめんなさい」

「なーに? 可愛いね。気にしなくていいのに」


 トゥレラージュはクスクスと笑いながら、ルネッタの頭を撫でた。ふにゃりと下がった目尻に、可愛いのはそちらではないかとルネッタは思うのだけれど。頭を撫でる手が心地よいので目を細めるに留めた。


「昨日は色々あったからねぇ。うなされたりしなかった?」

「まったく」


 うなされるどころか夢をみた記憶すらない。正真正銘ぐっっっすりと呑気に間抜けにおねんねしていたのである。不甲斐なし。

 ルネッタがしっかりと頷くと、トゥレラージュは「良かった」と丁寧にルネッタの髪を撫でた。


「ご飯食べたらまた森?」

「はい、湖をもう少し見たいです」


 昨日のうちに試したいことは大体やってしまったが、城に戻る前にもう一度見ておきたい。ルネッタがそう思うのは無論、はた迷惑な神の涙がたっぷり含まれていそうな、なんだか縁起の悪い湖に思い入れが……なんてわきゃない。んなモンひとっつも無いルネッタであるが、神を追いかけてぶん殴らなければならない魔女なのだ。

 しかも、向こうにルネッタの存在を気取られずに背後をとる必要がある。

 なんせルネッタの、否、始まりの魔女の魂がこの世にあることを知れば、神は一目散に駆けてくるだろうからな。それで、ルネッタを自分が愛した魔女だと思い込むならまだいい。いや、良くはない。ルネッタはルネッタという自己を捨てる気はないし、気色の悪い神に愛想を振りまくこともできないので、すこっしも良くはないんだけど。

 だけども、それよりも何よりも、神に荒ぶられることが困る。世界が湖になっちまうもの。

 いやいや冗談じゃない。びいびい泣く神様のご機嫌をとるなんてルネッタは御免だね。ルネッタは神の横っ面を張り倒し最後の魔女になるのだ。


「少しでも多くの武器がほしいです」

「やだうちの子好戦的! そういうの大好きよ」


 ばちーんとウィンクをする兄に、ルネッタはふんすと頷いた。

 



 が。

 やったるぞと盛り上がったルネッタの気持ちは、ルネッタの意思をおいてあっという間にしぼんでいったのであった。

 小さな小さな世界では考えられなかったけれど、外の世界にはいつだって不確定で満ちている。



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