いろんな名前2
ルネッタには、二つの名前がある。
一つは、ルナティエッタ・ディアブレスという、生まれた場所で授けられた、大層な名だ。
まあ、授けられた、と言ってもルナティエッタは生まれてから16年、ファミリーネームを口にしたことは一度も無いんだけど。
ちょっとした騒動の末、隣国の王と婚約を結ぶにあたり、外聞が悪かろってことで名乗るようになっただけだ。
ディアブレス、なんてご立派な名前は盛装しなければならないような、なんかキラキラした場でしか呼ばれないし名乗らないので、正直ルネッタはあんまり、自分の名前って気がしない。
それよりも。
それよりも、もう一つの名前。
ルネッタ、という呼び名が、ルネッタは好きだ。
実際のとこ、ルネッタの婚約者が呼ぶこの名を同じように呼んでくれる人は、あんまりいない。
ルネッタは、新しい自分になったような気持ちになれるこの名をとっても気に入っていたので、みんなもっと呼んでくれたらいいのになあ、とこっそり思っている。が、それぞれ立場、があるらしいので口には出さぬ。思ったことなんでも口に出してちゃ長生きできん。てのはルネッタが16年の生で学んだ重要な事だ。
何せルネッタはホイホイ死ねない運命を背負っている。
運命、なんていうと少々大げさでロマンチックだが、ちっとも笑えない己の人生を今更嘆いても仕方が無いとルネッタは知っているので。まあ笑っとけ笑っとけ。はは。ルネッタは笑い方なんざ知らんがね。
さて。
そんなルネッタにこの度、新しく名が増えるのだという。
いや、正しくは、古い名を捨てて、新しい名を名乗れと言うから、プラマイゼロなんだけども。
ルネッタの作業がひと段落したところで、「話がある」とヴァイスに切り出されたのは、宰相の娘にならないか、という話だった。
「ルナティエッタ・ロベリオン」
ルネッタの声が研究室に響く。
ヴァイスは、おう、と頷いた。
「嫌か」
伺うように、ヴァイスの濃紺の瞳がじっとルネッタを見ている。
探られるような、観察されるようなこの眼に、初めはルネッタも居心地の悪い気分にさせられたものだけれど、今はこの瞳こそが、思いやり、っていうやつなんだってルネッタは知っている。
ルネッタが何を思っているか。
何を感じているか。
ヴァイスはいつも、それを注意深く観察している。
自分の感情が自分でよくわからない、そんな、おおよそ人間と呼ぶに相応しくないルネッタ以上に、ルネッタの事を考えている、変わった人。
ルネッタがふるふると首を振ると、ヴァイスは、そうか、と頷いた。
心なしか、ほっとしたように見えるのは、ルネッタの気のせいだろうか。気のせいだろな。そんな弱い人ではない、とルネッタは思考を追いやった。
ルネッタは、口を開く。
「私は、ディアブレス王家から除籍されたんですよね」
「はい、つつがなく」
答えたのは、椅子に座る眼鏡の男だ。
この国の宰相、つまりルネッタの父になると言う男は、にこにこと笑みを浮かべたまま続けた。
「貴女様を長きにわたって監禁してきた、あの狂ってる碌でもない家の名は金輪際、名乗る必要は無く、あちらが貴女様に何かを命じる権利もありません」
優しい笑顔と声に反して、出てきた言葉はけっこう過激だ。意外と口が悪いんだこのおじさま。
ただ、生物学上の父である、彼の国の王様にブチ切れた実績を持っているルネッタはそれを否定をする気にはなれず、また監禁されていた、って言われてみりゃその通りだな、と思ったので頷いた。
薄情?
そうかもしれん。
血が繋がっているはずの父親が、死のうが生きようが、もはやルネッタはどうでもいい。
喜び勇んでその首を取ろう、と思う程憎んじゃいないが、角砂糖一つほどの涙も出ない。とゆーか興味が無い。
なにせ、殺されかけた記憶とか、蔑んで見下ろされた記憶とか、罵られた記憶とか、まあ碌でもない思い出しかない。
そんなで「ああ、お父様……!」とか言えるほど、残念ながら感情豊かなお嬢様にルネッタは育てられていない。うーん、いやほんと残念だけどね。仕方が無いよねこればっかりは。
ってなわけわけで、ルネッタは「良かった」と口にした。
で、そのあと、でも、と不安がよぎる。
「父が、同盟を組んでいるにも関わらず、よからぬ企みをしたのに……良いんでしょうか」
同盟ってなんだっけ。なんてね。言いたくなるくらい、ルネッタの父上殿は阿呆だった。
魔法使いの国。それが、ルネッタが生まれ育った国だ。
世界随一と呼ばれる魔法技術の裏に絡繰りがあるのはさて置いて。随分と高い鼻を持っている連中が多い国であることもまた、世界から見て有名な話であるというから、お恥ずかしい事である。
そんな国の王様は、ルネッタが隣国の王と婚約を結ぶに至った“ひと悶着”のアレソレをお恨みなさった結果、王の首を狙ったのだ。
それこそ、嘘みたいだけど、これもほんとの話。
めっためたのぎったぎたに、そのクソみたいな作戦をぶっ潰して粉砕して木っ端微塵にして差し上げたルネッタは、婚約者ヴァイスのおかげで、父と縁を切ることとなった。
もう二度と利用されることが無いように。
もう二度と、踏みにじられないように。
ヴァイスの優しさに全力で乗っかった身であるが、このまま国王の婚約者という立場にいて、庇護されて良いものか。
ぎゅっと真っ黒のドレスを握ると、「あぁ?」と心底不機嫌、とばかりの声が言った。
「あの時、ハッキリお前はアレと別離を宣言したんだ。今のお前は、アレと一切の関わりの無い、俺の国の民であり、俺の婚約者だろうが」
腕を組んで尊大に言い放つ様は、物語の悪役の様だ。不機嫌を絵に描いたような顔も相まって、まあなんと凶悪。
なのに、その言葉も、声も、ルネッタには、この世で一番優しく聞こえる。
ぎゅう、とドレスを握ると、ヴァイスはフン、と鼻を鳴らした。
「俺が聞きたいのは、ジェイコスの娘になることをお前がどう思うか、ってだけだ」
どう思うか。
問われて、ルネッタはジェイコスを見やった。
ストラップのついた眼鏡が印象的で、黒い髪を後ろに撫でつけた、優しそうな顔。目じりの皺を深くして、「ルナティエッタ様」といつも微笑んでくれる、穏やかで、意外と過激な人。
「陛下と婚約を維持するためには、申し訳無い事にそれ相応の家門がやはり必要で……ということで、うちは可愛げの無い息子二人しかいないし、娘が欲しいなあと喜んで手を挙げた次第でしてね。ルナティエッタ様にも、まっとうな父と母との生活を体験してほしいですしねえ」
「誰がまっとうだ誰が。お前も大概イカれてんだろが」
「まあ多少ネジが緩んでないと、貴方と長く付き合えませんよねぇ」
「上等だ表出ろ」
「日向ぼっこですか?」
「なんでだよ」
あはは、と笑う陽気な顔で、一国の王を手のひらでくーるくる。怖いんだか優しいんだかわからないこの男が、ルネッタの父になるという。
親子だとか家族だとかいう言葉の特別感とか、なんかそういう、綺麗なものを感じたことがないルネッタには、うまくイメージができないし、自分なんぞと縁を繋いで良いのかと、不安になるんだが。
目が合ったジェイコスは、やっぱり優しく優しく、微笑んだ。
「急がなくて良いですよ。重荷に思う事もありません。お嫌でしたら、お嫌だと仰っていただいても、誰も責めません。どうかお心のままに」
ジェイコスはそう言って、それから、「まあ断られたら寂しいですけど」と眉を下げた。
するとヴァイスが「断りづらい事言うなよ」と睨んで、ジェイコスは「だって可愛い娘ゲットの確率は上げたいですし。僕、卑怯で定評のある宰相ですからねぇ」なんて笑う。
ルネッタは、だから少し考えてみる。
もし。
もし、このままルネッタがヴァイスの婚約者であり続けて、それで、本当に結婚なんてしたら、ジェイコスは王妃の父となるわけだ。
それって、結構なメリットってことだわな。なるほど、申し訳ない、とか。あんまり思わなくって良いのやもしれぬ。
んじゃ、ジェイコスはそれだけが目当てだろうか。
自分で卑怯と言うだけあって、まあ腹黒い御仁なのだろうな、ってことくらいは、さすがのルネッタにもわかるけれど。でも、優しい人だってことも知ってる。
だって、ルネッタは王の婚約者のくせに、マナーもなんも知らん子どもなのに。それでもいつも「お困り事はありませんか?」と聞いてくれる人だ。
にこにこと、いつも微笑んで、温かい声で、「そうですか」とルネッタのつたない話に相槌を打ってくれる人だ。
「お父様って呼ばれたら嬉しいですねぇ。あ、パパでも歓迎です」
「パパってお前……お前若く見えるが60過ぎてただろ……」
「よそはよそっうちはうちっ!」
「使い方違うんじゃねぇか」
ポンポンと小気味良く交わされる会話に入り込めず、ルネッタはそのやり取りを見守る。テンポの速い会話は、まだ苦手なのだ。
「ではルナティエッタ様」
急に声を掛けられ、ルネッタは少しびっくりする。顔には出ていないだろう。何せルネッタは無表情と評判なので。
「良ければ考えてみてくださいね」
「あの」
腰を上げたジェイコスに、話はこれで終わりね、なんて空気を感じてルネッタは慌てて口を開いた。
はい、とジェイコスは柔和な笑みを浮かべ、椅子にまた座る。
ヴァイスはうっすらと口元に笑みを描いた。
ルネッタが何を言おうとしているのか気付いているのかもしれない。
ヴァイスのこういうところに、ルネッタはちょっとだけ、こう、なんていうか。腹ン中がぐるんとする。多分、これが「イラッとする」って感覚なんだろうな、とルネッタは思った。
そんで、ジェイコスの娘になった自分を考えてみる。
「まっとうな親子」になってくれるという、この人の娘になった自分を、ルネッタは考えてみる。
「ジェイコスさんの娘になる、とか。よくわかりません」
「うんうん。ゆっくり考えてみてください」
「でも、ゆっくり考えても、きっとわからないと思います。だって、私はそれを知りません」
ジェイコスは、はい、と静かに返事をした。
穏やかな瞳が、じっとルネッタの言葉を待ってくれている。
ルネッタは、ドレスをまたぎゅうと握った。
「自分の名前もきっと、乳母が呼ばなければ知らないままでした。私の名前を呼ぶ人は乳母だけで、へーかが二人目でした」
ヴァイスは、当たり前の顔をしてルネッタに名前はと問い掛け、何でもない顔でルネッタと呼ぶようになった。今のルネッタにとって、そう、きっと、一番大切なもの。
ひょいと眉を上げているその顔が何を考えているやら、ルネッタにはさっぱりとわからんのが、そう、悔しいが。
「だから、ジェイコスさんも、私をルネッタって呼んでくれるなら、私、それがいいです」
みんなが当たり前に持っているそれを、ルネッタは知らない。
ルネッタにとって、この城には知らない事ばかりが溢れている。
綺麗なドレスも、笑顔の人々も、自分だけの研究室も、優しい瞳も、ぜんぶぜんぶ、知らないものだらけ。
今は、ただ、それらを取りこぼすことが無いようにと、ルネッタは必死で両手を広げているのだ。
「では、私の事も父と呼んでくれるかな? ルネッタ」
父と、それを口にすることを禁じた男は、もうルネッタの父ではない。
今日からは、父と呼んでくれという、この人がルネッタの父親になる。
「はい、お父様」
笑顔はまだ、つくれない。
けれど、ヴァイスとジェイコスが満足そうに笑ってくれるので、いつか自分も上手に笑えたらいいと、ルネッタは思った。
ひとまず、区切りの良いところまで投稿させていただきました。
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