いろんな名前1
「あ」
ポコン! と土の鍋の中で、ふいに大きな音がする。
腰まで伸びた長い黒髪を耳にかけ、ルネッタは鍋を覗いた。
鍋の中には、魔法をかけた薬草から抽出した薬液と、モンスターの爪とか牙とか内臓とか、まあ色々入っている。色々を手順通りぶっ込んで、手順通り魔法をかけて、あとはクツクツ煮込み続けた。
最初は黒とも茶色ともつかない、どす黒い、どろっとした液体が、ずもも、と渦巻いて揺れていたのだけれど、見事! 底が見えるくらいに透明の色に変わっていた。キラキラと、淡い光が飛んでいる。
「それ、何してんだ」
声を掛けられたルネッタは、鍋から顔を上げた。
小さなルネッタが座ると身体がすっぽり埋まってしまうふかふかの椅子に、どかりと座るのは白いシャツと黒いズボン、と随分ラフな服装の男だ。
肩に付くくらいの黒い髪に、キリッとした意志の強そうな眉。眉間の皺と機嫌の悪そうな濃紺の瞳、はデフォルトで、怒るとこの皺はもっとすっごいことになる事を、ルネッタは知っている。この男の眉間の皺くんの本気はこんなモンじゃねぇ。
ついでに無精ひげが、より近寄りがたい雰囲気と「おっさん感」を強調するのだそうだけれど、長いこと人と触れ合う機会の無かったルネッタはあんまりピンときていない。
無精ひげも、眉間の皺も、無い方がソワソワしちまうってもんよ。
初めて会った時からずっと、ルネッタの婚約者殿は、ヴァロイス・エルサート・アスキロス国王陛下は、そのような風貌でいらっしゃったので。
そう、この男は、ルネッタが身を寄せる城の主で、この国の王で、そしてルネッタの婚約者だ。
ちなみにヴァイスは31歳でルネッタは17歳なので、14歳も年の差がある。
なんにも知らない、魔法しか取り柄が無いちっぽけなルネッタが、なんでもできる王様の婚約者。
とっても信じられないけれど、ヴァイスと呼べ、と言う低い掠れた声が、ルネッタを呼ぶ。
ルネッタの真実は、ただそれだけだ。
ルネッタにその呼び名を与えた人は、だって、ルネッタを傷つけない。
どころか、とても丁寧に扱うのだ。
ルネッタが何をしても、何を言っても、ルネッタを厭わない、変わった人。
「どんな汚れも落とす魔法薬です。鍋を焦がした事を隠したいとある方にこっそり頼まれたんです」
「それ言って良いのか」
「へーかは犯人捜ししないでしょう」
まあな、と軽い返事を聞きながら、ルネッタは部屋の隅の、大きな箱を開ける。
手と頭をつっこんでゴソゴソやっていると、「何してんだ」と後ろから声がかかった。
「うまくいったか確認したいんです。たしか、この中に焦がした鍋を入れたなと思って」
「とっとくなよ、んなモン」
そうは言うが、ルネッタはどうしても、新しい物を買うのは気が引けるのだ。失敗はルネッタのせいだし、そもそもヴァイスの手によって備品はたくさん用意されている。一つ無くなったからといってそう困らないし、とっておけば何かの役に立つだろう、としまいこんだのだ。
「ありました」
ふんと両手で鍋を引っ張り出すと、がらんごろんと瓶がいくつか転げ落ちたのでポイと戻しておく。
中身は失敗作の回復薬だ。傷をすぐさま完治させる! という効果は期待通りなのだが、いかんせん味が酷かった。それはもうほんっと酷かった。うげ、とかうえ、とかそんなレベルじゃあない。ちょっと舐めただけで、味覚が発達してないルネッタですら、死ぬかと思ったのだから、とてもじゃないが人に渡せない。
が、捨てるには惜しいのでとっている。いつか役に立つ。はず。多分。多分ね。
しかし鍋が重い。
鍋を軽くする魔法をかけよう、とルネッタが思ったところで、鍋がひょいと宙に浮いた。
魔法を間違えたか? ってんなわけない。
後ろを振り返ると、思ったより近いところにいたヴァイスが、眉を上げた。
「お前、片付けしろよ」
ルネッタの後ろから、片手で軽々鍋を持ち上げたヴァイスは、がこん、と重たいその鍋を作業台に置いた。
「ここでいいか?」
「有難うございます」
何も言っていないのに、ルネッタが少しでも困っているとすぐに現れるヴァイスの大きな手は、ルネッタにとってちょっと不思議なものだ。
いつかあの手をじっくり観察してみたい、と思っていることはルネッタの秘密である。
「で、どうすんだ」
「これをかけます」
興味深そうにヴァイスが覗き込んでくるので、ルネッタは完成した薬を匙で一掬いし、それを焦げ付いた鍋に振りかけた。
すると、
「お」
「あ」
ピカ、と鍋は光輝くほど美しくなった。そう、まるで新品のように! なんて美しい!
ルネッタの無表情と、ヴァイスのちょっと驚いたような顔が、綺麗に映り込むほどピカピカである。店で売られていても、誰も中古だと思わないだろう。
ま。
にょきにょきとお花が咲かなれば、だけど。
花は、ピンク、薄い青、黄色、紫、と実にカラフルで、形も大ぶりな物や小指の先程の小さなものまで、バラエティー豊かだった。それが、零れるように、溢れんばかりにどんどん花開いていく。
「ああ……」
ピカピカに綺麗だった鍋は、違う意味で綺麗な鍋となってしまった。なんかこういうオブジェとして飾るしかない姿である。
誇らしげに、私綺麗でしょ? とばかりに咲き誇る花をむしり取ってまで鍋を使う気にならず、ルネッタは溜息をついた。
「失敗したのか?」
「いいえ」
ルネッタは首を振って、用意しておいた瓶に薬を移す。
「鍋に焦げ付いている薬品の存在を忘れていました。薬品同士が反応してしまったようです」
はあ、ともう一度ため息をつきながらせっせと薬品を移すルネッタに、おい、と低い声が言った。
おっと。
これは、ちょっと怒っている時の声じゃなかろうか。
ルネッタが手を止めて恐る恐る顔を上げると、案の定、ヴァイスの眉間の皺が多めに刻まれている。ハアイこんにちは僕お怒りよん、とばかりに眉間の皺が手を振っている。
ルネッタはこくりとツバを飲み込んだ。
「それはつまり、悪い反応が起こる可能性もあった、ってことじゃねぇのか」
「…………」
その通りだった。
鍋に焦げ付いた薬品が何だったのか、ルネッタは覚えちゃおらん。この鍋をいつ、何のために使ったのか、なーんにも考えずに引っ張り出して、薬品を垂らしたので。
記憶を辿り反応と照らし合わせて、多分、文官に育毛剤を頼まれた時のやつだな、と思ったくらいである。
だから、まあ、はい。その通りだったのです。
もしかしたら毒が沸いちゃった可能性もあるのです。
とは言え、ルネッタは魔女だ。
解毒の魔法も薬もお手の物。何があっても対応できる。
だがそれを正直に言うほど、ルネッタちゃんは阿呆ではない。
優しいが怖いこの王様は、ルネッタが危ない事をすると、大層お怒りになるのだ。魔法薬の材料になる珍しい虫を見つけて木によじ登った時なんて、研究禁止! と、3日間研究室に鍵をかけられた。
二度と一人で木に登りません、と魔法のかかった誓約書にサインさせられて、ようやく鍵を開けてもらえたのだ。
光栄です! とニコニコしながら書類を作成した魔法使いの事を、ルネッタがこっそり恨んでいるのは内緒だ。
魔女である私が魔法の契約書にサインするだなんて、とあれが「悔しい」という気持ちなんだと教えられた、ルネッタのいやーな思い出である。
なわけで、ルネッタは首を振った。
「いいえ」
「嘘だろ」
一瞬でバレた。
なぜだ。なぜバレた。
ルネッタがパチパチと瞬きをすると、ヴァイスは眉間の皺を増やした。呼んだかい? って呼んでないよ眉間の皺くん。
「全部顔に出てんだよ」
んな馬鹿な。ルネッタの表情筋は今日も元気に死んでいる。
ルネッタは、ちらりとヴァイスの後ろを見た。
ヴァイスが座っていた椅子の隣。同じ椅子に深く腰掛けた、ストラップの付いた眼鏡をかけた男は柔和な笑みを浮べた。
「私にはわかりませんが……さすが陛下ですね」
ほら見ろやっぱり安定の無表情じゃん。もしかしてカマかけられた? 当てずっぽう? と思わせてくれないのが、ヴァイスの恐ろしいところ。
「あ? 見りゃわかんだろ」
そう、ルネッタちゃんは阿呆じゃないはずだったが、ヴァイスが唯一、ルネッタの表情を読めるということを忘れていたのである。断じてルネッタは阿呆ではない。ヴァイスが規格外なだけだ。
だがしかし。
もしも万が一、毒を生成していれば、ヴァイスにも影響があっただろう。
一瞬で治療できる自信がルネッタにはあるが、それはそれだ。一国の王を危険に晒すなど、臣下のすることではない。下手すれば処刑だ。
ルネッタは、ヴァイスの優しさに甘えている自分の浅慮を恥じた。
「ごめんなさい」
しゅん、とルネッタが素直に頭を下げると、ヴァイスは「あ?」と更に低い声を出した。
ルネッタの肩がぴくりと撥ねる。
なぜって、「あ?」はヴァイスの口癖だが、これはお怒りになった時の「あ?」だから。それがわかるくらいには、ルネッタはヴァイスと共にいる。
ヴァイスと婚約して、一年だものな。まあつまりそれは、ヴァイスもルネッタの思考を読めるくらい、側にいるってことなわけだ。
「お前今、俺に危険があったかもしれない事を詫びたな」
言葉も表情も足りないどころか、無いに等しいルネッタの感情や思考を、ヴァイスは読み違えない。
ルネッタは、何が悪いのだとヴァイスを見上げた。
「……だって」
「だってじゃねぇ! 何度言えばわかる! 自分の身の安全を最優先に考えろ! 自分の命を一番に考えろ! 俺が怒ってんのは、お前のそういうところだ! 前に木に登った時にも、散々言っただろう!」
「へーかの、命じゃなくて……?」
「当たり前だ!」
落とされた雷に、ルネッタの身体がビリビリと震えた。
恐怖ではない。
心が震えて、ぎゅっと掴まれて、ぐうっと喉が苦しくなって、ちょっとだけ泣きそうになる。
これが、感動、とか、喜び、と言うのだと教えてくれたのは、ルネッタの目の前で怒鳴るこの婚約者だった。
「私が怪我をすると、みんなに迷惑がかかるから怒られたのだと、思っていました」
ルネッタは王の婚約者として城にいる。そんなルネッタが怪我を負えば、一緒にいた侍女が叱られるのだ、と教えてくれたのも、この婚約者だった。
自分の身を守ることが、隣にいる誰かを守ることになる。
だからよく考えて行動をしろ、と懇々と説教された。
それ以来、やりたい事はなるべく口に出して、事前に相談するように心がけているのだ。
ルネッタは、それで良いと思っていた。これでもう怒られない。ヴァイスをがっかりさせないと、そう思っていたのだ。
でも。
「……違うんですね」
それだけじゃ駄目だった。
きゅ、とルネッタが思わず両手を握ると、ヴァイスは盛大にため息をつき、長い前髪をかき上げた。
「お前が心配だからだ」
嘘みたいだと、何度思っただろう。
あの部屋を飛び出して、ヴァイスの婚約者として過ごして、何度も何度も、ルネッタは思った。
嘘みたい。
誰かが自分の名を親しげに呼んで、心配してくれて、大切にしてくれる。
そんな日々が、己にあると、ルネッタは思った事も無かった。
「わかったか」
ふ、とヴァイスが困ったように小さく笑う度に、胸がぎゅうっと苦しくなって、ドキドキと、不思議な音を立てる。
ルネッタは、飛び跳ねたくなるような、不思議なこの気持ちの名前はまだ知らないけれど。
「はい」
ヴァイスが「ならいい」と笑う。
その声を失わないように、大切にしようと、ルネッタは頷いた。
「ところでその薬、鍋が綺麗になりすぎて逆にバレちゃうんじゃないですか?」
「え」
ルネッタは、ぱちりと瞬きした。
人の世は難しい事ばかりだ。
新しいお話を始めるのは緊張します。
ルネッタの過去は、少しづつ書いていきます。
はじかねを読まなくても、こちらだけでも楽しんでいただけるように書きたいと思っておりますので、最後までお付き合いいただけましたら幸いです。