魔女を嫌いな国7
「ルネッタ」
「え」
ぼろ、と落ちてきた雫に、ルネッタは瞬いた。
オレンジ色の宝石みたいな瞳から、ころりと水晶が転げていくみたいに、雫が落ちていく。
な、泣かせた!
「なぜ、おまえがそんな目に合わなければならなかったんだ」
くそ、とトゥレラージュは袖でぐいと顔を拭う。赤くなった目元で睨まれたルネッタは、ばたばたと両手を動かした。一体どうすれば!!!!
「泣かないでくださいよトゥレラージュ様」
「お前だって泣いているじゃないか」
「!」
ええ!! 驚いて見ればたしかにシャオユンの目も震えているではないか!
ルネッタは焦った。大いに焦った。目の前で自分よりも大きくて立派な男性が二人も泣いているんだぞ、ルネッタのせいで。え、ルネッタのせいで? わからん。人生経験の乏しいルネッタにはなんにもわからん。
ルネッタはわけがわからぬまま、ただ両手をわたわたと振ってしまう。撫でるのか? 頭を撫でればいいのか? だがしかし手が届かない。
「だって、なんで、ルナティエッタ様が!」
シャオユンの大きな声に、ルネッタはびくりと肩を揺らした。
なんで。なんでか。なんでかあ。そうなあ。
なぜだろう。笑ってしまいたい気分で、ルネッタは目を細めた。
ルネッタと。ルナティエッタをあのひとがそう呼んで、一年が経った。
目まぐるしい日々の中、あの部屋を置き去りにして、ルネッタはいろんなものを抱きしめて生きていた。喜びとか幸せとか、それから、後ろめたさとか怒りとか。言葉に形にできぬほどに、そりゃあもういろっんなものを混ぜて混ぜた鍋みたいなモンを、必死に抱きしめて生きてきた。
取りこぼさないように。
流れ出てしまわないように。
「私……」
は、と。ルネッタは瞬きをした。
ルネッタは自分の人生を悔いちゃいない。真相を聞いてそりゃまあ腹は立ったが、あの時ルネッタは最善を生きていたと思っている。
それを二人に伝えなければと思うのに、言葉にならない。
なんだこれは?
目の前の二人はもとより、ルネッタの知るどの魔道士とも違う魔力の気配が、ルネッタを呼ぶように漂っている。
やたらキラキラしていて、純度が高くて、そうだ。「神聖」と口にするのが相応しいと感じる、魔力。この魔力をルネッタは知っている。
「……アズウェロ?」
いいや、違う。
ルネッタの初めての旅で出会った白い毛玉──あの神は、ルネッタの友と遠い場所にいるはず。
ならば、これは、
「神がいるのですか」
口に出した瞬間、ルネッタは走り出していた。
「ルネッタ!」
「ルナティエッタ様!」
慌てて二人がルネッタを追いかけてくるが、ルネッタの足は止まらない。気配を見失わないようにと、感覚をそちらに向ける。
「森はいけませんルナティエッタ様!!」
はっとしたように叫ぶシャオユンに、ああそうかとルネッタは確信を強めた。ヴァイスは別れ際、シャオユンに言ったのだ。
『森には行かせるなよ』
あの言葉の意味をルネッタは深く考えなかった。
大体においてヴァイスの言うことはいつも難しいし、意味深だし。何よりルネッタは、ヴァイスが自分に与えるものを選んでいることを知っていて尚、その選別に不満をいだいたことがなかった。
ヴァイスが言うならば間違いはないと、信じていた。彼の言葉を疑ったことなど、一度たりとてない。
だから、ヴァイスが森に近づくなと言うならそれは、己を守るためなんだろうとルネッタはわかっている。
では、ルネッタを守らねばならん危険とはなんだ。
ルネッタを傷つける何かだろうか、魔法のことになると後先を考えないルネッタ自身だろうか。
前者だ。
だから、走れば走るほどに神の気配が濃くなっていく。
ルネッタを遠ざけたいとヴァイスが思う、何かが、在るのだ。そこに。
ぐっと唇を噛んだルネッタは、魔力を錬る。
「風よ吹け吹け私の背を押し隔て逃亡者を憐れんでおくれ」
ごう、と風が音を立てて背中で巻き荒れた。
ぴしぴしと飛んでくる小石やら枝やらが不愉快だし、無理やり足を進めさせられるので、足が痛いし心臓が痛い。いつものルネッタが隣で見ていれば「雑で汚いです」と嘆いただろう。詠唱はめちゃくちゃだし、組んだ術式も穴だらけ。それに走り慣れていない身体でどこまで行けたものか。
そもそも身体能力を高くする魔法を使えば良かったのだとルネッタは思い至るが、どのみち思考がうまくまとまらない状態では大した魔法は使えない。自分の魔力を循環させるような魔法よりも、自然の力を借りた方が手っ取り早いだろう。
とにかく二人に捕まってはいけないと、ルネッタの頭はそれだけでいっぱいだった。
「くそ、進めない! シャオユン!」
「うるさい待て! ルナティエッタ様の魔法を簡単に破れるわけないでしょう!」
ほ、とルネッタは走りながら安堵の息を吐く。
ルネッタが恥ずかしさで頭を抱えそうなほど雑な魔法なんだもの。シャオユンならあっという間に打ち消せるはずなのに、あんなに動揺するだなんて。もしかしたら、ヴァイスの言いつけを守れないとシャオユンも焦っているのかもしれない。
だとしたら、申し訳ないけれどルネッタにとっちゃ好都合である。
今のうちに少しでも距離を稼がねばならない。
「偉大なる風よ風その大きな手でどうか逃亡者の矮小さを憐れんでおくれ」
ルネッタは魔力を練り、指を二度振る。
もうこの際なんでもいい。どうせ恥ずかしい魔法なのだ。一度も二度も変わらん。とにかく気配の先に辿り着きたいと魔法を重ねてかけると、ルネッタの足がふわりと浮かんだ。
宙に浮いた足でそのまま駆け足すれば、身体がぐんぐんと前に進んでいく。
はたから見りゃ宙に浮いて走ってんだから二度見しちゃう異様さであったけれど、幸いそれを目にしたのは森の動物くらいのもんで、動物たちはその異様さに驚き逃げていった。逃げろ逃げろ。ルネッタが走りやすくて良い。
そうやってルネッタが空中でジタバタしながら辿り着いたのは、わざとらしく木が茂り行く手を阻む、行き止まりであった。
「はあ、はあ、ぜえ、ぜえ、おえっ」
ついでにルネッタの体力も行き止まりであった。吐きそう。
ぐるぐると目が回るし息を吸ってんだか吐いてんだかわかりゃしない。迂闊に息を吐くと朝ご飯が大地と融合しそう。無理。これは無理。
ルネッタはポーチに手を入れて、ずるりと杖を引っ張り出す。
ぎゅうと杖を握りしめたルネッタは、頑張って息を止め、魔力をかき集めた。
「な、なおせ」
杖と己の魔力量に依存した力任せな魔法だったが、それでも魔力は身体を巡っていく。
怪我をしたわけではないので「治せ」という術式は不出来極まりなく、人様に見せられるようなものではない。
が、自分の身体に回復魔法をかけるのは初めてではない。瞬き一つで実行できるくらいに使い慣れた魔法は、ルネッタの呼吸を元通りにし、二本の足は座り込んだ身体をきちんと持ち上げた。
ふう、と息を吐いたルネッタは、眼の前の木々と向き合う。
──これは人の魔法ですね。
あからさまに「何かを隠していますよ」という顔をしている大樹の奥からは神の気配がするのに、触れた木からは人為的な魔力がする。
それに、じんわりと温かい。
「……この魔力……」
温かくて、一見すると無駄な工程が多く見えるのに全体を見ると見事に輪になる不可思議な術式。
ルネッタはそれを知っている。
「──テレーゼ……?」
とても懐かしいその名を呼んだ刹那、強い光が辺りを包んだ。