賢者の石
進化するとはどういうことか。
古来より、ありとあらゆる生物はその生活環境と共にあった。羽虫はそれを食す小鳥を恐れ、小鳥は彼を食らう捕食者たちに恐れをなした。
あるものは寒さの中に震えながら息絶え、あるものは突如溢れた毒素に耐え切れずその命を散らした。
生命の歴史は絶滅の歴史だ。強い生き物が残るのではなく、環境に適したものが生き残るのだ。
そして、種族の中で淘汰を免れた一族だけが子孫を残し、次代に命をつないでいく。適応を達成した要因は遺伝子として受け継がれていく。
これを進化と呼んだ。進化とは適応のことなのだ。
さて、その長い長い生命の歴史を追っていくと、ついに我々人類の登場だ。人類はその優れた知性を発揮し、道具を生み出し、火を操り、星を読んでは農耕に役立て、集団の力による安定した生活環境を生み出した。
そして科学技術を発展させていき、宗教や道徳、倫理の更新を繰り返しながら、いつしか過去あらゆる生命の中で最も特異な力を手に入れた。暑い日にはエアコンの電源をピッと付ければ涼しくなり、逆に寒ければ暖房をつければ、他の生物のような羽毛を手に入れずとも平気な顔して生活できる。
不作が起きれば他所から運んでくれば良いし、川が無くて困るのであれば通してしまえば良い。
人類はついに『環境を支配する力』を手に入れたんだ。これにより、淘汰は絶対に起きなくなった。環境に淘汰される前に、人類がそれに対する策を生み出してしまうからだ。つまり、どんな過酷な環境にも適応できる力を『知性』によって獲得したわけだ。
この『環境を支配する力』こそが、我々人類が手にした、至高にして禁忌の力だと、そう思わないかい?
*
薄暗い書庫の一角。ぐつぐつと煮えるフラスコを片手に、白衣の彼女はそう得意げに告げる。
「……でも」
俺はその問いかけに、ただそれだけで返した。
資料に目を通すことが忙しかったのもあるし……それに、彼女の言わんとすること、そして俺がそれを理解しているということは、そのショートメッセージだけで十分に伝わるからだ。
「そうだね。そんな無敵の人類が適応できなかった、唯一の環境変動がある」
200年前。何の前触れもなく『死の星屑』が天から降り注いだ。強い毒性を持つ、黒い雪のようなその物質は瞬く間に多くの生命を大地へと還した。
急速に浸透・崩壊し、大地も天井も突き破り侵入してくる黒い雪に、人類はなすすべなく、ほんの数時間で絶滅寸前まで追い詰められた。
当時、財閥が運営していた『バルジ・シティ』と呼ばれる、特殊素材でできた半球状の天井で覆われる巨大ドーム内に作られた都市だけが『死の星屑』の被害から免れ、そして結局のところ人類はほぼ全滅し、彼ら『バルジ民』の子孫だけが生き残ったわけだ。
世界はドームの中、人間の世界『バルジ・シティ』と、ドームの外、暗闇と死と毒の世界『ハロー・ワールド』に分かたれた。
「……無敵と思われた人類も、あまりに突然すぎる事態に対応できず、息絶えたわけだ。そして今でもこの『バルジ・シティ』の外に出られずにいる」
人口110万人を誇るこの閉鎖都市バルジでは、多くの人間が外への憧れなど既に忘れ、天球面に描かれた人工太陽が照りつける偽りの昼夜の下で生活している。
「で、首尾はどうなんだ」
彼女は自分のボサボサの髪から一本引きちぎると、手元のフラスコに投入する。ポコポコと不気味な音をたてながら、蛍光色の液体が泡を吹いた。
「やっぱり、ここも数値が合わない。君の予想式が正しければ、もっと少なくてしかるべきなんだ」
手元にクリップ止めされた紙の束をパサパサとあおり、疲れをにじませながらそう答えると、彼女は「やはりね」とだけ答え、それからまた黙ってしまった。
この女は、急に長々と喋ったかと思えば、何の説明もなく黙り込んでしまう。
付き合わされるこちらの身にもなってくれ。
「で? これからどうするんだ」
椅子の背もたれに深く腰掛け、あくびをかましてやった。もう飽き飽きだというポーズは十分彼女に伝わっているだろうに、何の返事もない。
財閥直営の教育学校に、夜まで居残って勉強しているような生徒は俺たちの他にいない。
それは直ちに、彼ら彼女らが不真面目だということを意味しない。つまり、この時間は塾で勉強しているわけだ。俺や彼女と違って、親のいる子供たちは存分に教育投資を受けている。
それを考慮すれば、むしろ不真面目なのは俺たちだと言えるだろう。そもそも、この時間帯になると学校寮で生活している家無し生徒しか出入りできないのだが、誰一人として人影がないということはそういうことだ。
そりゃそうだろう。他の子どもたちが優れた教育を受けている一方で、自分は書庫の薄汚れた、いつの時代のものとも知れぬボロボロの本で勉強しようと思うやつはいないのである。
「……マリ先生に相談しようかと思うんだが、どうかな」
いつの間にか、安全ゴーグルを装着していた彼女が、真剣な顔でフラスコを見つめながらそう言った。『活脳』の代償で色素の抜けたパサパサの髪が、彼女のじわりと汗ばんだ白肌に張り付いている。
「君、先生と親交あったっけ?」
「ない。でも彼女が適任なんじゃないかと思って」
そりゃ、ダメだろう。個人的なコネクションの無い教師にあーだこーだ言っても、彼ら彼女らも忙しいわけだから、まともに取り合ってくれない。
「じゃ、お前が適任を探してくれよ。私の頼みなんだから聞いてくれるだろ」
「勘弁してくれ」
ため息交じりに拒絶する。返事はなかった。
机の上に広げられた、先ほどまで俺が目を通していた資料は、各種官庁統計表だ。
数日前から彼女に頼まれて手伝っていた作業は、ずばりこの膨大な集計表に目を通していくことである。数値が合わないというのは、彼女が考えた式に基づいて消費電力、植林状況、有機資源の再利用状況、『活脳』使用状況等、もろもろの数値を計算していくと、最終的な消費量に対して生産量・供給量がおかしいということだった。つまり、本当はもっと、生産量が少ないはずなのである。
強引に数値が変更されて帳尻合わせされているような……意図的なデータの改ざんを思わせる変化が、彼女の数式をもとに計算することであらわになる。
そしてそれは、エネルギー消費量と生産量のアンバランス……完全再生社会の失敗を意味する。バルジ・シティの外の世界『ハロー・ワールド』は死の星屑によって汚染されているため、都市外部の資源を利用することはできない。したがって、バルジ・シティが近いうちに崩壊するということが、彼女の計算によって分かってしまったのだ。
「でも、考えてみてくれよ。本当にエネルギー収支が合っていなくて、都市内エネルギー生成量に対して消費量が多いのならば、既にこのバルジ・シティは崩壊しているとは思わないか? つい最近になってこの均衡が崩れたわけでもないんだ。もう、何十年も前から……利用できる統計データ全てにおいてこの不均衡が現れている。容易に想像できることとして、計測開始前のデータから既に……もしかしたら、バルジ・シティの始まりから既にこの不均衡が起こっているのかもしれない。200年も前の話だ。それなら、やはり事実としてエネルギー収支は合っているんだよ」
泡の発生が収まり、中の液体が黒ずんでしまったフラスコを机の上に置きながら──どこか残念そうな声で──彼女は喋り出す。
「君の計算式が間違っているということはないのか?」
「それはありえない。私の『活脳』で簡易世界を数度シミュレートしてみたんだが、計算通りの結論が得られた。おかしいと思って、ここ一週間は寝たきりで熱にうなされたまま、より精度の上げたシミュレーションを行ったが、やはり同じ結論が得られた。というか、お前もそれくらい知っているはずだろう」
まさにその通り。彼女の計算が間違っていることはありえない──彼女が持つ『活脳』は脳内で簡素な世界をシミュレーションできる。その世界で同じ結論が得られたのなら、やはり正しいということなのだろう。
「つまり、君はあれか。アレの話がしたいんだな。わかった、だから俺に話を振ってきたわけだ。納得したよ」
俺が降参のポーズをすると、彼女はクツクツと気味の悪い笑いを浮かべる。
「私の知り合いの中でも、お前はとびっきりの狂人だからね。なぜそこまで物体Xの存在を確信しているのかは知らないけど。でも都合が良かった。話を持ち掛けて正解だったよ。私の手足となって働いてくれるやつを探していたんだ。それにお前は男だろう、頑丈だ」
「そりゃ、結構なことで。わかったよ、俺が君の代わりに交渉してあげよう、君の考えを理解できて、なおかつ都市の歴史に詳しい人材ね……大学の教授にメールでも送れば良いのかな」
物体X、またの名を『賢者の石』。バルジ・シティで密かに噂される超物質。
文字通りの賢者の石は鉄を金に変えるだとかいうが、物体Xはもっと凄まじい。なんでも、無から無限の力を生みだすそうだ。
そして、彼女は気づいていないのだろうが、おそらく俺たちと似たような結論に至ったバルジ民は過去200年の間で数多くいたはずだ。だからこそ、こんな噂が広がっているに違いないのだった。