03.恐怖と屈辱
その後、間もなく夕食の時間だったので、私は食堂へ向かうために廊下を歩いていた。
するとあの客室からちょうど二人が出てくるところだった。
それも、扉の前で抱き合い、口づけを交わしたのだ。
……まだいたのね。というかそういうことは、部屋の外に出る前にやってほしい。
ここは王城内だというのに、随分大胆。
キャネル嬢はいつも胸元が大きく開いた服を着ており、豊満なそれをエトワールに押し付けるように抱きついていた。
「……」
それを見て、私は自分の左胸の辺りできゅっと手を握った。
別に羨ましく思ったわけではない。
私だってそんなに自信がないわけではない。
けれど、人前では絶対にあんな服は着ない。……着られない。
なぜなら、私の胸には子供の頃にできた痣があるから。
胸元が晒されたものを着れば、それが見えてしまう。
それが嫌で、パーティーに参加する際も胸元の隠れるドレスを選んでいる。
――それにしても、あの二人は誰かに見せつけるためにわざとこんなところでキスをしているのだろうか。
そう思えるくらい大胆な口づけを見せられて、再び嫌な気持ちが込み上がってくる。
「……!」
立ち止まり冷めた視線を二人に送っていると、エトワールと目が合った。
エトワールは明らかに動揺の色を浮かべたけれど、キャネル嬢に私の存在を気づかれないよう背中を押し、その場から逃げるように立ち去っていった。
その後、夕食を済ませた私はさっさとお風呂に入り、今日はすぐに寝てしまおうと、少し早いけれど自室で寝支度を整えていた。
先ほどフォリス様にお借りしたハンカチを手に取り、あのときのやり取りをふと思い出す。
フォリス様はどちらのお家の方なのかしら――。
なぜフルネームを名乗ってくださらなかったのかしら。
何か隠したいことがあるのかもしれない。けれどあの佇まいとオーラのようなものは、決して低い身分を隠すためなどではなく、どちらかと言うとそれ以上の何かを隠されているような気がする。
もしかしたら、とんでもない大貴族様なのかもしれない。父に聞けばわかるかしら……。
「……」
ハンカチからは、フォリス様とぶつかってしまったときに香ったものと同じ、彼の爽やかな香りがした。
とても整った顔立ちと、鍛え抜かれていた身体。
少し冷たい印象を受ける引き締まった口元だったけれど、内側から滲み出る優しさを感じた。
エトワールのような、上っ面だけの薄っぺらいものとは違った。
「……」
――いけない、私は何を考えているのかしら。
あんな男でも、一応婚約者がいる身で他の男性を思ってしまうなんて。
それに、フォリス様にも婚約者がいらっしゃるかもしれない。
年齢は私よりも少し上くらいに見えたけど。そういう方はいらっしゃるのかしら……。
……ううん、考えたって仕方ないわ。
そう思い直し、早く寝てしまおうとハンカチをテーブルに置いてベッドへ向かう。
そんなとき、コンコンコン、と部屋の扉がノックされる音が聞こえてきた。
「はい」
侍女かしら。今日はもう帰したけれど、何か忘れ物だろうかと、そちらに顔を向けて返事をする。
「ティア、入るよ」
「……っ!」
けれど、聞こえた声と開かれた扉の前に立っていた人を見て、私の胸は嫌な音を立てた。
「……殿下、どうされたのですか? こんな時間に……」
エトワールは私が既に夜着に着替えている姿を見ると、なぜか嬉しそうに口元に笑みを浮かべた。
私は、寝る時だけは胸元の緩いものを着ている。
こんな姿をこの男に見られるのは嫌。
「ティア、今日は嫌なところを見せてしまったね。……その、怒ったかい?」
先ほどのことを、悪いことをしたという自覚があるなんて、少し驚いた。
「いえ……、構いません。慣れておりますから」
言いながら一歩ずつ私に歩み寄ってくるエトワールと、距離を取ろうと後退する私。
こんな時間に、二人きりなんて……。
「……私はね、君を愛して……愛したいと思っているんだよ?」
「そうですか」
やけに甘ったるい声で言われて、気分が悪くなる。
この男にそんなことを言われても、既に気持ち悪いだけ。
どうせどの女性にも言っている、安いセリフなのだから。
素っ気なく答える私に、なぜかエトワールは歩みを止めず、一定のところまで来たというのにその距離を更に詰めてきた。
私は後ろへ下がるけど、ついにベッドに足がぶつかり、ハッとして足元に視線をやった。
「でも君が私の相手をしてくれないから」
「……っ!」
その隙をチャンスと思ったのか、エトワールは急に私の肩を掴むと、そのまま後ろに押し倒してきた。
とても紳士的とは思えない作法だ。
「殿下っ、おやめください!!」
「君が相手をしてくれないから悪いんだよ? 君は私の婚約者なのに、最近は名前も呼んでくれないね」
目の前で呟かれ、気持ち悪さで吐き気がする。
私が悪い?
私が抱かせないから仕方なく他の女を抱いていると言うの?
まだ結婚もしていないのに?
その勝手な言い分に呆れ果てて、言葉も出ない。
けれど彼は何を勘違いしたのか、耳元で「ティア……」と私の名前を甘く囁き、頬に手を伸ばしてきた。
気持ち悪い……!!
さっき他の女を抱いていた手で、触れないで!!
パチン――ッ!
高く、冷たい音が部屋に響く。
「……あ」
私は思わず、エトワールの頬を平手打ちしてしまった。
それはもう、ほとんど条件反射のようなものだった。
けれど殿下にこれは、さすがに不敬だっただろうか。
まずい――。
そう思ったときには、怒りに歪んでいくエトワールの顔。
「君は本当に、可愛げがないな」
「……」
低い声で睨まれて、恐怖を感じた。
それでも私の口から謝罪の言葉は出てこない。
こんな男に謝るなんて、嫌。私の本能がそれを許さなかった。
「わかったよ、そんなに私が嫌いなら、君との婚約は解消してあげる」
「え?」
今までに聞いたことのないような低く怒りを含んだ声で言うと、エトワールは「来い!」と言って私の手首を強く掴み、ズカズカと部屋を出て廊下を進んでいった。