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アッシュという失礼な女(3)

 しばらくの間、私は自分の身に起こったことがあまりに信じられず動けなかった。ようやく頭が回りだして、キスされた瞬間を思い出し顔がカッと熱くなる。急に怒りがこみ上げてきた。


「勝手にあんな、あんな……なにしてくれてんのよ!」

「もしかして初めてだったのか。それはすまなかったな」


「すまないで済んだら、警察はいらないでしょ」

「ああいう顔と声がタイプなのか。君は変わっているな。抱きしめられて耳元で囁かれた時、まんざらでもなさそうな顔をしていたようだが」


「してないしっ!」

「そんなにあの男の部屋に行きたかったのなら、止めはしない。今からでも行けばいい」

「行くわけないでしょ」


 アッシュは、じっと私の目を見た。


「もう一度だけ確認しておく。ああいう男がタイプなのか」

「だから違うって言ってるでしょ」


 アッシュはニヤリと笑う。


「ならば何も問題ない。あの場を収束させるために、一番効率的な最善策をとったまでだ」

「どこをどう解釈したら、あれが最善策なのよ。バカじゃないの」


「あのぐらいしておかないと、あの手の男はしつこいぞ。攻撃は最大の防御だからな。むしろ感謝してほしいぐらいだ」

「誰が感謝なんか」


 アッシュはスーツケースを転がして、そのまま奥の寝室に入っていった。


「ちょっと待ちなさいよ。さっきからなんなの。勝手なことばっかりして。私の許可なく部屋を使わないで」


 寝室の扉を叩くが、アッシュはなにも答えない。ムッとしながら勢いよく寝室の扉を開けた瞬間、アッシュはシャツを脱いでズボンを下ろしているところだった。慌てて扉を閉める。


「べ、別にわざとじゃないから」

「こういう場合、僕は悲鳴でもあげたほうがいいのか」


 アッシュの冷静な声が、扉越しに聞こえる。


「だからわざとじゃないって!」

「大声を出すな。警備に捕まりたくなければ黙っていろ」


「黙ってられるわけないでしょ」

「警備を呼んだらまずい状態になるのは、君のほうじゃないのか。『速報 世界10位に選ばれた女子高生は痴女だった』という記事をネットに流されたくはないだろう」


「なっ……だからそれは不可抗力で。ARグラスの映像が証拠になるでしょ。わざとじゃないってことがわかれば」

「君が自分の意思で裸を見たかどうかなんて、世間の奴らはどうでもいいんだ。一度でも疑いがかかった時点でアウトなんだよ。そんなこともわからないのか。本当に君はお利口さんだな」


 アッシュの吹き出すような笑い声が聞こえる。口を開けば嫌味ばかり。なんなんだこの女は。


「君は便器に落としたかもしれないというスプーンを渡されて、それでご飯を食べようと思うのか。たった一度でも疑念を持ったら、それを口にしようとはしないだろう。人とはそういうものだ」


 想像しただけで、口の中が気持ち悪くなり吐きそうになる。アッシュの言葉は正論だ。何も言い返せない。


「問題を起こしたら僕だけじゃない、君も地上に戻されるぞ。君だって強制送還は望んでいないんだろう。少なくとも式典の表彰式ぐらいは出ないことには、ここまで来た意味がないはずだ。保護者に連絡されて迷惑をかけるのも本望ではないだろう」

「もちろん……そうだけど」


 やっと天空タワーに来られたのに。こんなことで地上に帰るなんて、絶対に嫌だった。


「だったら大人しくしていることだ。どうせ寝室は余っている。問題ないはずだ」

「問題あるでしょ。知らない人が同じ部屋で寝るなんて」


 アッシュが鼻で笑っているのが聞こえた。


「思い出してみろ。君はリニアの中に何時間いた。長い間、性別年齢問わず、まったく知らない者同士が密室状態で一緒に過ごしていた。君の乗っていた車両で寝ている人はいなかったか」


 記憶を辿る。トイレに行くために通路を移動したときに、かなりの人間が眠っていたのを目撃していた。


「君の後ろに座っていた中年男性も走行中は、ほぼ眠ったままだった。座席を挟んでいるとはいえ、君という見知らぬ人間のそばで、直線距離にすれば数十センチと離れていない所で寝ていたことになる。つまり恋人同士が同じベッドに寝ているぐらいの距離で、赤の他人が寝ていたということだ。それと同じだと思えばいい。人との距離感なんてものは、認識次第でどうとでもなる。意識している側の問題だけだ」

「そんなこと言われても」


 言われなければ気にしたことなんてなかったのに、これからはうっかり電車で居眠りもできないじゃないか。どうしてくれるんだ。


「シャトルの中で君は、僕の姿が見えない位置に座った。あれだって見えないことで、いないのも同然だと思い込むためにしたことじゃないのか」


 自分の考えが見透かされたようで、なんだか癪だった。


「人はいつだって、ありもしないもので壁を作り、見てみぬ振りを続けてるじゃないか。国境も、差別も、格差も。歴史が始まった時からずっと。有るのに無いことにする。無いのに有ることにする。君たちはそういうのが得意だろ」


「今はそんな抽象的な話はしていないでしょ。論点をずらしてごまかさないで」

「現実が見えていないのは君の方だ。この部屋には寝室が二つある。広さも十分にあって、寝室は扉で区切られているという点を考えれば、車内より今のほうが、よっぽど条件が良いと思うが」


「そんなのただの屁理屈でしょ。リニアは移動中だから、みんな仕方なく我慢してるだけで」

「だったら今の状況も、仕方ないと思って我慢すればいいだけだ。僕たちは今、天空タワーという大きな乗り物で、空の上を移動中なのだから」


 言われてみればそうかもしれない……なんて一瞬納得しそうになった。


「いくらそうだとしても、やっぱり同室なんてありえないから」

「こんなところで押し問答を続けるのもどうかと思うが。君はいつまで扉の前に立っているつもりだ。外に出られないんだが」


「ご、ごめん」


 私は慌ててその場を離れる。だが扉を開けたアッシュは何も着ていなかった。


「……!!」


 慌てて目をそらしたが、たぶん見てしまった。何をってそんなことは誰にも言えない。


 アッシュは見られたことをまったく気にしていない様子で、そのままバスルームに向かって歩いていったようだ。ここは私の部屋なのに。アッシュはやりたい放題だ。


 アッシュの裸を見ないように、背を向けた状態で私は叫ぶ。


「リニアで勝手に裸になる人なんていないし。知らない子と一緒の部屋で寝るなんて絶対に無理だから」

「キスまでしておいて、知らない子はないんじゃないのか」

「それはそっちが勝手にしたことでしょ。とにかくお風呂から上がったら、出て行きなさいよ」


 アッシュはバスルームに入ったようだ。シャワーの音が聞こえてきた。返事はない。どうやらもう、答えるつもりはないらしい。


 私は大きなため息をついた。これ以上、一人で怒っていてもどうしようもない。諦めて自分の荷物の整理をすることにした。クローゼットを開け、着替えをハンガーにかける。小さめの肩掛けカバンに貴重品を詰め替えた。


 準備が終わると、ソファーに力つきるように寝転んだ。反動で、上着のポケットから、文庫本が転がり落ちる。慌ててキャッチして、『青になった世界』と書かれたゲームブックを開く。


 挟んだ覚えのないしおりが、読みかけだったページに差し込まれていた。厚めの青い布地に、灰色猫の刺繍がされている可愛らしいしおりだ。最初にパラパラめくった時には見なかった気がするが、どこかに挟まっていたのを寝ぼけながら使ったのだろうか。よくわからない。


 とりあえず最初に選んだ『青い豚人』というトリッキーな選択肢は、バッドエンドに直行だった。次は違う選択をしなければ。そう思いながら、私はページをめくった。





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