アッシュという失礼な女(1)
「降りないのか」
肩を揺すられて目が覚めた。アッシュが私を見下ろしている。
ほかの乗客はみんないなくなっていた。いつの間にか寝てしまったようだ。昨日はほとんど眠れなかったせいで疲れていたのだろう。たっぷり寝たおかげで宇宙酔いもせずにすんだのかもしれない。
なんだかずっと嫌な夢を見ていた気がする。けれどよく思い出せない。暑いわけでもないのに額には汗が浮いていた。
ARグラスの画面で、顔認証システムが作動してアッシュの顔を捉えると、灰色猫先生がニャーと鳴くSEと共にメッセージが表示される。
『かなりのイケメンニャ。ターゲットを彼に設定するかニャ』
性別さえろくに判断できないような、ポンコツAIに教わることなど何もない。もちろん拒否をする選択肢を選ぶ。
『しない』
『それは残念ニャ』
もしかして地上に戻るまで、ずっとこの茶番を続けないといけないのだろうか。うんざりしながらため息をついた。
「うなされていたようだが、大丈夫か」
アッシュが怪訝そうな表情で、こちらを見ている。できるだけ嫌味女子にはかかわらないようにするつもりだったがしょうがない。
「……大丈夫。起こしてくれて、どうもありがとう」
申し訳ない程度にお礼を言うと、私はシートベルトを外す。立ち上がっただけで体がふわりと浮き上がる。すでに微重力状態になっているようだ。
反動で飛んでいきそうになった文庫本を掴んで、ポケットに押し込んだ。
荷物の棚を開けると、リュックサックも宙に浮かんでいる。手に取ろうとした時、再びアッシュが声をかけてきた。
「君は知っているか。人がなぜ物語を欲するか」
「なぜ物語を欲するか?」
「わざわざ物語を消費して、泣いたり悲しんだり、自ら絶望しようとするのは人間だけだ。どうしてだと思う」
そんなことは、今まで考えたこともなかった。お腹が空くからご飯を食べる、それと同じぐらい、当たり前の行為ではないのか。
「深い意味なんてないでしょ。物語なんて、ただの暇つぶしなんだから」
「君の認識は、その程度か」
口を開けば嫌味を言う。やっぱりよく知らない女子と話すんじゃなかった。いまさら後悔しても遅いが。今日は運が悪い日だと思って諦めるしかない。
「人間は快楽や幸福を求める生き物だ。なのに、絶望や負の感情がなくならないのは、なぜだと思う」
「私が知るわけないでしょ。どうせ人間を作った神様の設計がポンコツすぎただけなんじゃないの」
残念なプログラムだってそうだ。存在意義のわからない命令文や変数だと思って削除すると、そのプログラムは動かなくなることがある。きっと人間にとっての負の感情も、それと同じように、削ることのできない謎の『何か』なのだろう。
「思考停止にもほどがあるな。物事には必ず理由があるはずなんだ。絶望も悲しみもなくなれば、人間はみんな幸せになれるはず。なのに淘汰されることなく、人間には負の感情がはびこっている。おかしいとは思わないか」
「科学的に説明のつかないことなんて、いくらでもあるでしょ」
「考えたことはないか。この世界の神様は、人間をわざと絶望させて、エネルギー資源にしているとしたら。だから君の人生にも、何度も絶望が訪れるんじゃないのか」
「何度も絶望って、どういう意味……」
文庫本の入っているポケットを指差して、アッシュが言う。
「……君が読んでいた本の、バッドエンドの一つだよ。その様子じゃ、まだ読んでないルートだったみたいだな」
「なっ、勝手にネタバレしないでよ」
「もう少し君は感謝をしたほうが良いと思うよ。世界が平和であり続けるという奇跡に。物語で絶望を作り出して、わざわざ楽しむなんて悪趣味なことができるのは、人間の悪い癖だ」
そう言ったアッシュの緑色の瞳は、かすかに揺らぐ。怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。
「ちなみに、君のこれからの人生に発生する、ラッキースケベというやつにも、ちゃんと意味がある」
「は?」
「さて、いつまでも機内に残っていると、警備ロボットが来そうだな。そろそろ出たほうが良い」
そっちが引き止めたくせに。文句を飲み込んでから、アッシュの後を追うように、リュックサックを担いで出口に向かう。
やっと天空タワーに到着したようだ。あれだけ来たいと願っていたはずなのに、まだ寝ぼけているせいか、あまり実感がない。まるでまだ夢の中にいるようだ。シャトルを出ようとした瞬間、背後からアッシュに声をかけられて体を止める。
「知らないのか。天空タワーは土足厳禁だぞ」
「え? 嘘」
寝ている間に注意のアナウンスでもあったのだろうか。私は慌てて靴を脱いで手に持った。
だがシャトルから出た瞬間、背後からアッシュが靴を履いたまま抜き去っていく。ふわりと空中に浮きながら振り返ったアッシュが、笑うのを堪えるようにしながら言った。
「本当に君は、お利口さんだな」
騙されたことに気が付いたが後の祭りだ。恥ずかしさで顔が熱くなる。
靴を履き直そうとしたが、慌てているせいで勢いがつきすぎて、体が回って止まらなくなった。アッシュに腕を掴まれてようやく回転が止まる。笑いをこらえるアッシュの顔を殴りたい衝動を、必死に抑えながら靴をはき終える。
「君は猫が好きなのか?」
私が今日履いてきたパンツには、猫さん模様がついている。慌てて私はチェックのスカートを抑えた。
「もう大丈夫だから、離してください」
「集合場所まで、エスコートしてあげようか。お利口眼鏡さん」
「結構です」
アッシュの手を振り切ったら、その反動で、また私の体が回ってしまう。
「だから言ったのに」
我慢しきれずに吹き出すように笑うアッシュは、緩やかに後ろ向きに浮遊していたが、背後に迫っていた壁に気がつかずに、強く頭を打ち付けたようだ。
かなり痛がっているが無視をする。人のことをバカにしたりするから。自業自得だ。
私はあっかんべーをしながら、壁を強く蹴って、逃げるようにシャトルを後にした。