まさかこんなところに(2)
必死に追いかけてくるダリルと秘書たちが見えなくなるまで、私は全速力で走りきった。手続きカウンターに到着すると、携帯端末を取り出しチケットを表示する。スタッフが個人認証データをスキャンした。無事に登録手続きを完了したようだ。
「有希・ドレイパーさまですね。お待ちしておりました。それでは良い天空の旅をお楽しみください」
私がシャトルに乗り込むゲートをくぐろうとした瞬間、腕を掴まれて呼び止められた。ダリルは肩で息をしている。
「待てよ、有希。大丈夫か。あんな高い所に一週間も」
「大丈夫って何が」
ダリルは頭を掻いて、しばらく言いにくそうにしている。
「言いたいことがあるなら早く言えば」
「有希、あのさ……お前、本当は苦手だろ、高い所」
「別に……もう苦手とかないよ。何言ってんの」
ダリルの言うように、私は一年前に高い場所が苦手になった。無差別テロで崩壊寸前の高層ビルで死にかけたからだ。生まれて初めて出かけた大きな都市で、たまたま無差別テロに巻き込まれたのは、運が悪かったとしか言いようがない。
私が宇宙博覧会なんかに、興味を持たなければ。母が誕生日プレゼントに奮発して、チケットを手配しようと思わなければ。いくら後悔してもしきれない。
奇跡的に私は助かったが、母は救助される直前に、崩落に巻き込まれた。それ以来、私は高い場所は苦手になった。
「天空タワーに、母親と一緒に行くのが夢だったんだろ。それはわかってる。だからって無理する必要はないんだぞ。やめるなら今のうちだ」
「だから、もう治ったんだから。大丈夫だって言ってるでしょ」
ダリルに引き取られてから、街で暮らすようになっても、しばらくは崩壊現場のフラッシュバックに悩まされ、小さなビルですら、気持ち悪くなることもあった。
仮想空間での認知療法プログラムを、ARグラスで繰り返したおかげで、今ではなんとか治っているはずだった。すべての治療を終了したことは、保護者に通達がいっているのに、それでもダリルは、私の言葉を信用していないのか、まだ眉間にしわを寄せている。
「でもな、天空タワーは、ちょっと悪い噂があるだろ。行ったっきり戻ってこないとか、戻ってきても、人が変わったようになってるって噂が」
クラスの女子が話しているのを聞いたことがある。お気に入りの映画スターや歌手が、天空タワーに行ってから仕事を辞めて、SNSなどでの発信も途絶えてしまい、実質的に行方不明状態になっていると騒いでいた。
天空タワーは、どの国にも所属していない治外法権ということで、警察などの介入も難しく、正式な調査がされていないらしい。だからほとんどが、都市伝説のようなものだった。ゴシップ記事で噂にされているだけで、真相は闇の中だ。
「ただの噂でしょ。行方不明っていっても、仕事に疲れたセレブが、天空タワーでバカンスを楽しんでるだけじゃないの。人が変わるっていうのも、初めて宇宙を見た時に、人生観が変わっちゃうとか、そういうやつかもしれないし」
「それなら……いいんだけどな」
ダリルにしては珍しく、神妙な顔をしている。一応、心配はしているということだろうか。
「最近はギルザードも、入り浸ってるっていうし。もし天空タワーで遭遇しても、あんまりやつには関わらないようにしとけよ。あいつ、バベルを辞めた俺のこと、未だに逆恨みしてるらしいから」
たぶん世の中には、ギルザードのほかにも、ダリルを逆恨みしている人は、たくさんいそうだ。きっとダリル本人は、それなりに悩みもあって見えない努力をしているのかもしれない。
だが、はたから見ると、生まれた時から才能に恵まれ、毎日好き勝手に面白おかしく生きているだけで、何もかもを手に入れてしまう幸運の申し子に見えてしまう。そんな人間は得てして、無用な怨みを買うものだ。強くて煌びやかな光のそばには、必ず大きな影ができる。人の心理もまた同じだ。
「そうだ、これ、渡すの忘れてた」
ダリルが手渡してきたのは、古い文庫本だった。『青になった世界』と書かれている。最近では滅多に見ることがなくなった、紙製の文庫本だ。
「荷物増やすなって言ったでしょ。本当に人の話を聞かないよね、ダリルは」
「そう言うなよ。この本にはさ、必ず持ち主のところに戻ってくるって伝説があってだな。まぁそのお守りみたいなもんだ」
かなり古い本のようだ。紙が日に焼けて黄ばんでいる。古書が持つ独特の匂いの中に、かすかに柑橘系の香りが混じっている。母が使っていたアロマオイルに少し似ていた。二度と戻ることのない実家の匂いを思い出して懐かしい気持ちになった。
何度も読み返したのか、ページの端を折った形跡もある。カバーの裏表紙には、ペンで数字の落書きがされていた。メモ代わりにでも使ったのだろうか。
44511311422211
32533453214254513353
134233423553
114244324254513415
アラビア数字のみだが、どこかで見たような数字の羅列だ。嫌味女子が持っていたスーツケースに貼られていたステッカーの数字に似ている気がする。
「いらないよ、こんな古い本」
「そう言うなよ。ゲームブックって知ってるか。物語の途中で選択肢を選んで、クリアを目指すやつだ」
「ゲームブック?」
コンピューターゲームが作られる前に、よく遊ばれていた本だと、文学史の授業で習った記憶がある。実物を見るのは初めてだった。
「ノベルゲームの元祖みたいな部分もあるし、大学でプログラム学科に進むつもりなら、今のうちに、一度は遊んでおいて損はない。暇つぶしにはなるだろ」
「別にいいよ。私が作りたいのは、世の中の役に立つプログラムなんだから」
「なら余計に遊んでみるべきだ。ゲームだって人の役に立つんだし」
「役に立たないよ。ゲームなんて人の時間を奪って堕落させるだけだし。そんなものには私は興味がないから」
「有希は本当に頭が固いな。もう少しいろんなことに興味を持ったほうが楽しいぞ」
私はため息をついた。いろんなことに興味を持ちすぎるせいで、いつも周りに迷惑をかけているダリルに言われたくない。
パラパラとめくって中身を見る。小説のような文章と、選択肢の部分が交互に書かれていた。選択肢に書かれたページ数に飛んで、物語を読み進めるタイプのようだ。
「ダメだよ。いくら全部のページが見られるからってズルはするなよ。先に答えを知ったらつまらないだろ」
「ズルなんてしてないよ」
「チラ見したところが、うっかりゴールのページだったら終わっちゃうだろ。答え合わせをするために遊ぶゲームほど、つまんないものはないぞ。本気で遊ぶつもりなら、ちゃんと最初の一ページ目から、順番に読んでくれ」
コンピューターゲームと違って、ゲームブックはどのページでも、自分で自由に開けてしまうから、ネタバレ注意ということのようだ。別に真面目に遊ぶつもりはなかったが、ズルをしたと思われるのも癪なので、ページをめくるのはやめた。
「初めてやる時は、ちゃんとルートをメモっておいたほうがいいぞ。同じところをぐるぐるさせられる、底なし沼みたいな選択肢があって、ループから抜けられない罠があったりするから。それに進んだルートが全て、バッドエンドにつながっていて、かなりさかのぼって、途中からやり直しになるなんてパターンもあるからな」
「別にわざわざメモなんてしなくたって、すぐにクリアできるでしょ」
「そう思っていた時が、俺にもありました。忠告を聞かなかったことを後悔しても、知らないぞ」
「後悔なんてしないよ、別に」
私は記憶力には自信があった。亡くなった母が言うには、幼い頃の私は、夜寝る前に読み聞かせをする絵本は、一度読んだら覚えてしまう子供だったらしい。新しい物語をねだる私のために、母はたくさんの絵本を手作りしていたぐらいだ。こんな文庫本一冊ぐらい、今だって余裕で記憶できるはずだ。
「えらく強気だな。では一つだけ助言しておこう。このゲームブックは、普通に読むだけではクリアできない仕組みになっている」
「なにそれ。クリアできないものを遊べってどういうこと」
「そんなこと言ってないだろ。『普通に読んだら』無理なだけで、クリアできないとは言ってない」
ダリルがニヤリと笑った。
「地上に戻ってきた時、最短の正解ルートと何回目のトライでクリアできたかを、俺に報告すること。もしクリアできたら、だけどな」
「もしかしてそれは、喧嘩を売っているんでしょうか」
「お利口な有希には、簡単な宿題だろ」
「いちいちお利口って言うな」
うんざりだ。どうして大人ってやつは、子供に宿題を出すのが好きなのだろう。たまには子供から大人に、宿題を出す権利を与えて欲しいぐらいだ。
「ちなみに俺が初めてクリアできたのは、三十九回目のトライだっけな。さて有希は、何回めでクリアできるかな」
さっきめくったときに、大体三百ページぐらいあったはずだ。そんなにリトライが必要なんて面倒くさそうだ。すでにやる気が萎えていたが、あとで正解ルートを教えろと言われると、やらないわけにもいかない。これも他人に養われている子供の義務だと思うことにして、上着のポケットに、文庫本を突っ込んだ。
ダリルは秘書に合図を送ると、カバンを開けて小さな箱を出してきた。三センチ四方の、手の平におさまるサイズの白い箱だ。水色のリボンがついている。
「こいつも持って行ってくれ」
「また荷物を増やす気ですか。もしかしてあなたはバカですか」
リボンに手をかけようとしたら、止められた。
「おっと、まだ開けるな。天空タワーに到着して、明日になったら開けろよ。絶対にそれより前には開けるな。わかったか」
「じゃあ、いらない。帰ってきたら、家で渡してよ」
「ダメだ。宇宙を見下ろしているタイミングで、有希がこの箱を開けることに意味があるんだから」
「なにそれ、怖いんだけど。開けたら爆発するケーキが入ってるとかじゃないよね」
ダリルは、以前にホームパーティに来ていた誕生日の客に、ろうそくを吹き消したら、小さく爆発してホイップクリームが、顔に飛ぶ罠をしかけたことがある。ちょうど天空タワーで、誕生日を迎える予定になっている。ダリルなら、余計な事をやりかねない。
「さすがに今回の俺は、そこまで非常識じゃないぞ。あれは、その……ちょっとやりすぎただけだ」
「どうだか」
「まぁ中身は、開けてからのお楽しみってことで。お子様はこういうサプライズがあったほうが、ウキウキすんだろ。ほら、持ってけ」
しぶしぶ箱を受け取ると、上着のポケットに押し込んだ。やっぱりダリルは、余計なことしかしない。どっちがお子様なんだ。
ニヤニヤと顎を撫でながら、ダリルがこちらを見ている。
「素朴な疑問なんだけど、お前、好きな子とかいるのか」
「……それ、今答える必要あるのかな」
よりによって、こんなに大勢の人がいる前で聞くことじゃない。一瞬、あの嫌味女子が頭をかすめた。なんでこんなときに。私は必死に頭の中から、嫌味女子のイメージを消し去ろうとした。
「なーんだ、十五歳にもなって、まだ好きな子すらいないのか。もしうっかり明日死ぬことになったら、絶対後悔するじゃないか。信じられないぞ。若いんだから、もっと人生を楽しまないともったいない」
「うるさいな。ダリルみたいに、誰にでも興味をしめしてたら、周りに迷惑かけるし、脳のリソースがいくらあっても足りないんだよ」
ダリルは腕組みをして、首をかしげた。
「それはどうだろう。愛情ってのは、多くの人に与えたからって、減るもんじゃない。むしろ増えるもんだと、俺は思うんだけどな。勉強だって、スポーツだって、好きな子のために頑張るって気持ちがあったほうが、いつもよりパワー出たりするもんだ。好きな子が一人できるだけで、まわりの風景すら、色が違って見えるようになるかもしれんぞ」
「何考えてるかわかんないような他人と、仲良くしたってろくなことがないし。今日だってリニアで一緒になった嫌味女子のせいで、ひどい目にあったんだから」
咳払いが聞こえて、私とダリルは振り向いた。今まさに話題に出した、あの嫌味女子が立っている。思わず叫び出したい気持ちを、必死に我慢した。
「その嫌味女子というのは、僕のことかな」
冷ややかな目で私を見下ろしている。
「僕も第四便なのだが、通してもらえないだろうか」
ダリルが道を開けると、私に小声で耳打ちしてきた。
「よかったな有希、こんなクール美少女と一緒なんて。友達になるチャンスだぞ。口説き方なら任せとけ。あとでレクチャー用のデータを転送してやる」
「いらないってば。絶対に余計なことしないでよ」
私がダリルを睨んでいると、立ち止まった嫌味女子が、私を見てニッコリと笑った。
「改めてご挨拶を。君をうんざりさせた、ろくでもない嫌味女子のアッシュだ。そんなに嫌われているとは知らずに、いろいろ話しかけてすまなかったな。嫌かもしれないが、これからもよろしく頼むよ」
アッシュは手を差し出した。相変わらず嫌味たっぷりだ。
ARグラスに、今回はきちんと検索中のアラートが表示される。犯罪歴は無し。グレードAの善良な市民だ。危険人物ではないようだ。
よりによって同じ便に乗るとは。気まずいどころの話じゃない。最悪だ。私はアッシュから目をそらした。もちろん握手なんてするつもりはない。
「どうした有希、クール美少女が差し出した手を取らないのは失礼だぞ」
「別にたまたま一緒になっただけの子と、仲良くする必要なんてないでしょ。どうせ地上に戻ってきたら二度と会わないんだし」
アッシュはクスッと笑った。
「そう思うのなら仕方ない。もし気が向いたら仲良くしてくれ。お利口眼鏡さん」
「お利口でも眼鏡でもない、有希だってば」
「すまない。一度、お利口眼鏡さんで記憶してしまって、上書きが難しいようだ」
アッシュは口の端を少し上げるようにして微笑むと、先にシャトルの中に入っていった。
私の名前を覚えていないだけでも不愉快なのに、また『お利口』とつけるなんて、いちいち嫌味なやつだ。どう考えても『有希』のほうが文字数も少ないし、覚えやすいはずなのに。名前を呼ぶ気は、最初からないということなのだろう。
ダリルが私の前にしゃがんで、目線を合わせてくる。
「俺は心配だよ。お前は人や物に対して排他的で厳しすぎるところがある。孤島で暮らしていたときは、それでも良かったかもしれないけど、ここはそういう場所じゃない。そんな生き方をしていたら、ずっとひとりぼっちで寂しい人生を送ることになるぞ」
ひとりぼっちという言葉が、強く脳を揺さぶる。私は震える唇をごまかすように、ぎゅっと歯を食いしばった。
「とっくの昔に、私はひとりぼっちだよ。去年からずっと」
私がそう言った瞬間、ダリルが胸をナイフで刺されたみたいな、痛くて苦しそうな顔をした。私がダリルの心に刺した言葉のナイフのせいだ。
それを言ったら、おしまいだということはわかっていた。けれど我慢できなかった。私を愛してくれた母はもういない。去年の誕生日に母は死んだ。私がどんな人間であろうが、無条件で愛してくれる家族は、もうどこにもいないのだ。
自分がひとりぼっちだってことは、私自身が一番よくわかっている。何も言い返すことができずにいるダリルを残して、私はシャトルに乗り込んだ。