幸福
差し込む夕日、揺れる電車、乗客の一人が頬張るパンの匂い。少女は隣合わせで座る彼に目配せをして微笑みかける。
「あのパン屋に行かない?」
その提案に、同じことを考えていたらしい彼も乗っかる。あのパン屋。ちょうど一週間前、片想いしていた少女が少年を誘って二人で行ったあのパン屋だ。名物のバターロールを二人で頬張った勢いで告白し、両片想いだった少年少女が、彼氏彼女になったあのパン屋である。その出来事が頭によぎり、二人で照れくさそうにしながら、どちらからともなく手を繋ぐ。少女の冷たくたおやかな手を、少年の骨張ってがっしりした手をそれぞれ握り合う。互いの手の小指に嵌めてある、アクセサリーショップで買った指輪を確認し、思い出と現実とを交錯させる。恥ずかしげにそっぽを向きながら、その幸福な沈黙に浸る。
しかし、少女たちの近くで吊革に掴まっていたその男にとっては、電車内に充満するインモラルなパンの匂いは苛立ちを呼び起こすだけだった。世間擦れした彼は、甘酸っぱい恋愛劇にも所構わずものを食べる馬鹿にも、特別関わるつもりはない。たいしてうるさくしているわけでもなければ、まして人を食べているというわけでもあるまいに、騒ぐだけ無駄だということを知っていた。静かに、これからの憂鬱な仕事の続きのことと、帰って飲む安チューハイのことを考えて、気分を紛らわせる。
不意に、ガタンと大きく電車が揺れた。物思いに耽っていた男は大きく体勢を崩す。とっさに踏みとどまったが、それは少女のスニーカーの上だった。ぎょっとしてスミマセンと小さくこぼす。
男は、しかし何かに勘付いたようだった。そのぎょろりとした目を右往左往させ、なにかを思案する。少女はその様子にどこか恐ろしさを感じ、足を椅子の下へと引っ込めようとした。
その上に、再び男の足。今度は誰の目から見ても意図的だった。その足は、靴の中身を確かめるように押し付けられる。痛みを感じるほどではなかったが、少年も少女も、突然のことに呆然として、身動きひとつできなかった。
男は確信したように口角を上げると、今度は少女に正面から覆い被さるようにして、その肩を、これまた確かめるように揉む。我に帰った少年の静止も聞かず、少女の怯えの表情すら無視して、ただその肩を揉んでいた。
おもむろにその上体がより少女に近づけられた、と思うと、男はその口を歯を剥き出しに大きく開け、少女の首筋にかぶりついた。
目を剥く二人。しかし、当の少女はすぐにその驚きを忘れたかのように、この上なく幸福そうな顔をして静止した。
少女は気づいたのである。自分がこのように食べられるべき存在であることを。目の前の男こそがそれにいち早く気づいた恩人であることを。自分が――パンである自分が、最も幸福を感じるのは、今この瞬間であることを。
爆発するように広がったその多幸感は少女の仮初の脳を冒し、それが収まる頃には少女は人間らしいことを何ひとつ考えていなかった。
少年の鼻に、小麦とバターの香ばしい匂いが広がる。それは他ならぬ隣の彼女から発せられていた。首筋は噛みちぎられ、白く柔らかな断面が覗いていた。絶句する少年をよそに、男はブラウスのボタンを上から外し、ブラの紐ごとはだけさせ、華奢な肩を、蠱惑的な鎖骨を次々と貪る。
少年は知っていた。人間の中にはそれに紛れてパンが混じっていると。何故なのかはわからないが、義務教育で教わることで、常識だ。パンはあたかも人間であるかのように振る舞うが、その本質は人間の食べ物であるため、見つけ次第食べてしまうことが両者のためになると言われた。人らしく振る舞っていたときの所有物は、最初にパンだと気づいた人のものになるらしい。そんな、つまり、彼女の痕跡もすべて、この男のものになってしまうというのか?
男は、咀嚼しながらちらりと案内表示を見ると、少女の腰を持ち上げ担いでしまう。首が半分ないので、頭が不安定に揺れた。少年はそれに待ったをかける。
「あの、その指輪は、俺のなので返してください」
せめて思い出の指輪だけは。安物ではあったが、二人で肩を並べて選んだものなのだ。
男はそのぎょろりとした目で見比べるように、少女として扱われていたパンと少年の手もとを見た。少年は訴えるようにその目をじっと見つめる。
男はついに口を利いた。
「……見る目がなかったな」
少年には返す言葉がなかった。結局、少年が先に少女がパンだと気づけば、男にパンを横取りされることはなかったのだ。そもそも、男がなにかしようとした時点で止めていれば、男のものにはならなかったかもしれないのに。
後悔先に立たず、だった。
少年はただ、次の駅で降りていったその男と、彼のものであるパンを見送っていた。スカート状の包装で隠された臀部が男の歩行と同期して上下し、両手足は投げ出されて揺れている。そして何よりも、首が半分になっていて不安定な頭部が、ぶらぶらと、その幸福そうな顔を――告白のときの顔すら霞んで見えるほどの顔を、こちらにあちらにと向けて揺らしていた。電車が発車し、ホームが見えなくなって、少年は未練がましく深い溜息をついた。
少年はパンの写真を眺めていた。指輪を一緒に買って、こちらに見せびらかしているのを撮った一枚。その眩しい笑顔には彼女の全てが詰まったように思っていたが、その思い込みはすでに霞んでしまった。
パンの匂いはまだあった。それが彼女だったパンのものなのか、向かいの男が食べているパンのものなのか、少年にはわからなかった。向かいの男は、OLのような包装のパンをスレンダーな臍のあたりまで食べ尽くしていた。あの男に持っていかれたパンはどうだろう、もう頭は全部食べ切られてしまっただろうか。押し付けられてどきりとした胸は? スカートとソックスの間から覗いた脚はどうだろう。少年は深い後悔に頭を悩ませていた。
――見る目がなかった。自分にはパンを幸せにはできなかったのだろう。パンの写真を待ち受けにした。今までは恥ずかしくてしていなかったが、自戒の意味を込めてだ。あのパンの首はどんな味だったのだろう、少年はそんなことを思いながら、いくつか先の駅で電車を降りた。あのパン屋にバターロールを買いに行こう。
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