(7)
はっ、として運転席のドアを見るが何もない。
いや、音は確かにしたはずだ。
じっと見ていると、拳がドアの下から出てきて、ガラスを叩いた。
「うぁっ!」
慌てて助手席から外に出ようとするが、ドアが開かない。
ロックがかかっているだけだ、と思ってロックを開けようとするが、うまくいかない。
「こりゃ、無断駐車かね!」
「……」
人の声だった。
「なんだ、ホテルの人か」
俺は運転席側に動き、窓を開けた。
「すみません、奴が来るのをまってるんですよ」
姿が見えない相手にそう言った。
「こんな山ん中のラブホでか?」
どうやら下から声がするようだった。
俺は窓の外に顔を出した。
「ひっ!」
妙に赤い口紅をつけた、お婆さんがそこにいた。
「失礼だね…… 本当に今日は失礼な客ばかりくるよ……」
お婆さんはホテルに上がる階段の方へ歩いて行く。
「すみません、おトイレお借りしてもいいですか?」
「休憩しねてぇ人はそのトイレ使うんだな。そこ出て軽トラの横にトイレあっから」
体重が軽いせいか、柔らかい底の靴なのか、婆さんは足音も立てずに戻っていった。
俺はドキドキしながら、車の鍵をかけ、外にでた。トイレの小屋やらしき建物の外に、蛍光灯が付いていたが、時々、フッと消えたりした。
トイレのドアを開けると、真っ暗だった。
灯りを探すと、上に丸い電球がぶら下がっていた。
「ん、どうやって付けるんだ」
じっとみていると、そこにヒネるようなスイッチが付いていた。
それを回すと、オレンジ色にトイレの中を照らした。
小学生の頃、どこかの地方で苦労しながらやったことがあるくらいしか記憶のない和式トイレ。
底が抜けていて下に落ちるタイプだ。
ものすごく悪臭がした。
恐る恐る扉を閉め、しゃがみ、用をたした。
一度濡れて乾いたような紙でしりをふいた。
電球を消し、トイレの扉を開けた。
「!」
蛍光灯が、フッと消える。
背後に何か気配を感じ、振り返る。
黒く、人影のようなものがみえる。
チチッと音がして、蛍光灯が光ると、トイレ小屋の影に回り込んだ。
俺はそいつを誰何しようとしたが、今、そんなことをしてクライアントの奥さん、あるいは奥さんの浮気相手、あるいはホテルで楽しんでいる誰か、に気づかれたらヤバイと思った。『誰だ!』と言えない代わり、俺は駐車場に逃げ込んだ。
「なんなんだよ、なんでこっちを脅してくるんだ…… 佐東さんが言うように、俺たち本当にはめられたのかな」
トイレの後ろにいた黒い影が誰であるか考えた。
一つはクライアントの奥さん。いや、可能性はひくい。
二つ目は、クーペを運転していた奥さんの浮気相手だ。しかし、ふざけてとか、脅しているのだったら、車が先に見つかって良さそうだ。
三つ目は依頼をしてきたクライアントだ。奥さんが浮気していると適当にウソを言ってコッチをはめようとしているのだ。いや、あんな高額なギャラを払い込んで、探偵社の面目を潰して喜ぶような、そんな馬鹿な遊びをするだろうか、そんな人間には見えなかった。
つまり…… コッチが想定している誰でもないということになる。
「誰だよ……」
俺は怖くなって、後ろの席に下がってスマフォを付けた。
佐東さんのメッセージはあれ以降何も来ていない。
『俺が一時間たっても戻らなかったら、クーペがいなくてもターゲットの家に戻れ』
メッセージに表示されている時刻と、今の時刻を見比べる。
いや、まだ約束の時間じゃない。心配する必要はない。俺はそう自分に言い聞かせた。
静かに暗闇で待機していると、いやなことばかり考えてしまう。
奥さんの浮気相手は、暴力団のような人殺しもいとわないような集団の構成員で、つけてきた佐東さんを殺し、そして俺も殺そうとしているのかもしれない。
ならばこの…… おそらく防犯用にビデオが設置してあるだろう駐車場で待っていた方がマシのはずだ。
この駐車場の中の車の中は国道の車の音も聞こえず、静かすぎて頭が変になりそうだ。
聞こえない音を聞いてしまうような、そんな静寂がある。
スマフォを見てみると、まだ何分も経っていない。
「はぁ……」
ため息をついて、スマフォを切ると、またコンコン、とガラスを叩く音がする。
また婆さんか、と思い今度は真ん中のスモークガラスの窓を開けて覗き込む。
「あれ?」
運転席側には誰もいない。
俺は怖くなってゆっくりと後ろ側を振り向いた。
何か霊のようなものが映っている…… いや、駐車場の壁が汚く汚れているだけだ、考えすぎだ、動かないじゃないか。
コンコン、再び前方からガラスを叩く音がする。ガラスを閉めるとシートの影から、そっと車の前方を確認する。
コンコン、音ははっきり聞こえるが、そこに手や人影はない。
シートの間を通って運転席につく。
かなり視野が広がったにもかかわらず、誰も見えない。
「ちくしょう…… バカにしやがって」
俺が勝手に怖がっているのをみて、笑っているのだ、と勝手そう思っていた。
ゆっくり駐車場内を見回すが誰も、何も見つからない。
……と。
コンコン、初めてその音の主を見た。
叩いていたのはフロントグラス。
屋根に乗っている鳥だった。頭を下げ、まん丸い目でこちらを確認している。
「くそっ!」
ルームミラー辺りにいるのその鳥を脅そうと、車の屋根を内側から叩いて脅す。
パタタタ…… と音がして、駐車場の床に降りたのが見えた。鳥はそのまま裏手の出入口の方はチョンチョン、と跳ねるように出ていってしまった。
「なんなんだ、鳥までバカにするのか」
頭に手をあて、目をとじると、またポケットにあるスマフォを見た。
時間…… 刻々と過ぎていく時間。
けれど、スマフォを切って、また付けると、まるで時間が戻ったかのように進んでいない。
俺はまた後ろの座席に戻って背もたれに体を預けた。
目を少しつぶっていよう、と思った。
しばらくの静寂。
突然、左側のスライドドアが、自動で開いた。
俺はドアに手を掛けてしまったかと確かめるが、そんなことはない。
とすると、勝手に開いた?
いや、だからロックが掛かっていたのだ。