(21)
急に、冷たい液体が浴びせられた。
ついていた手を放し、後ろへ下がっておしりをついた。
目が開けられず、手で必死に顔をぬぐう。
水、酒、それとも何か毒液の類…… 粘り気はないみたいだ。
体にも液体がかかって、体が震えた。
次第に気持ちが落ち着いてきて、ゆっくりと目を開ける。
「見えるかの?」
「お婆さん…… どこ行ってたんですか?」
「お前さん、目がみえとらんようじゃった」
「何を言ってるんです?」
「耳も。何も聞こえ取らんようだった。何があったか知らんが、狐にばかされとるんかの? それとも天狗の術にかかったか」
お婆さんは笑った。
「……」
「見えるかの? 聞こえるかの?」
俺はうなずいた。
「大丈夫。濡れて少し寒いですが」
「こっちじゃ。足元みえるかの?」
お婆さんが示す方向に道があった。
今のいままで見えていなかった道だった。ここで終わっていると思っていたが、左に道があったのだ。
「あるけるかの?」
「あっ、すみません。あるけます」
やはり、こっちに何かあるのだ。確かに、スマフォのマップ上は湖の近くまで行っているのに、この程度あるいて行き止まりというのはおかしかった。
スマフォで表示させると、確かに道はさっきのところで曲がっており、このまま湖へと向かっている。
「そんな目で車を運転しとると、人引いてもわからんのじゃないか。病院行った方がええ」
「いや、こんなこと初めてだから……」
「けど、車乗って帰らんと、おいてく訳にもいかんじゃろ」
「レンタカーなんで、駅まで乗れれば……」
お婆さんは後ろを振り返る。
「なら、孫呼ぶから孫に運転させ」
お婆さんは歩きながらポケットから携帯電話を出して、二番のボタンを押す。
変だ、と思い俺はスマフォを取り出して画面を見る。
「えっ……」
圏外表示ではない。
ここで入って、あそこで入らないわけもあるまい。より奥に来ているのだから。
この周辺で見たものが、あれもこれも幻だったのかもしれない。
「……たのんだよ」
お婆さんが携帯をしまった。
しばらく道なりに歩いているとロッジのような、小さな建物が見えてくる。
「あれですか?」
「あれじゃ」
お婆さんは立ち止まって振り返った。
「ここで説明しておこう。あそこにはいっちゃいかん。理由もある」
お婆さんは妙に間を置く。
何か相槌を考える。
「はい」
「まず、所有者がまだおる。いま誰も管理を任されておらんせいで、扉も窓も鍵があいとるが、不法侵入じゃ」
「当然です。はいるわけないじゃないですか」
「次に、一部床が腐ってきておる。中に入って、その上を踏み抜いたら底がぬける。抜けたら、そのまま湖に『ドボン』じゃ」
「なるほど」
「ゆっとくが、車をあそこの脇に止めようというのも駄目じゃぞ。見ればわかるが、そのまま車が湖に落ちてしまうからな」
「そうは見えませんが」
「……とにかく。あまり近づけて止めようと思わんことだ」
「はい」
お婆さんは別荘の方を振り返る。
「お婆さん、質問なんですが」
「なんじゃ?」
「なぜお婆さんはそのことをご存知なんですか?」
ゆっくりとお婆さんが振り返る。
「話せば長いが聞くかね?」
俺はうなずいた。
どうやら、ラブホが休憩・宿泊の料金を上げた際、ここまで車を入れてこの別荘でエッチをする男女が増えたのだそうだ。
何組かは問題なく事を終えて帰ったらしいのだが、あるカップルが調子に乗って我が物顔で裸で別荘の中を動き回ったらしい。その時に、男が腐っていた床を踏み抜いて、湖まで落ちた。女は助けを呼ぼうとしたのか、男の車に乗り、操作を間違えて車ごと湖に落ちてしまった…… という話だった。
だがそれは、誰かが目撃していたわけもなく、湖に浮かんだ男の死体から推測した話なのだ。
「おまえさんは彼女おるかね」
「いや……」
一瞬、幸子のことが浮かんだが、あれは人妻だ。恋人や彼女ではない。
お婆さんは話を付け加えた。
その話を聞いてか、心霊スポットとしてテレビで紹介されてしまい、夜になるここを訪れる人間が増えていたのだという。
大抵は湖を背景にして浮かび上がる別荘を見た瞬間に怖くなって帰ってしまうが、ヤンチャな若者が無謀にも中に入ってしまい、床に開いた穴から落ちてしまう。
もう持ち主がわからなくなっていれば、危険だから封鎖するようなことも出来るが、持ち主に連絡しても返事だけで対策してくれないから質が悪いのだという。
「わからんが、最初に別荘で死んだ女の霊がここにちかづけさせないようにしとるのかもしれん」
「そ…… そんな話があるんですか?」
「ない」
「……」
「最初の死体以降も、この別荘の下の湖に死体が浮くから、みんな怖がって近寄らんのよ」
「そうでしょうね」
お婆さんは俺を押し戻すようにして、歩き始めた。
「じゃから、ここから先に近づくな。わかったら、孫に運転させるから一緒に帰れ」
俺は振り向いて、別荘にスマフォを向けた。
何枚か方向を変え、周りの様子も入るように撮影した。
「ええから帰るんじゃ」
そう言って、お婆さんに腕を引っ張られた。
二人でレンタカーまで戻ると、軍手をした小柄な人が車の枝を取り除いてくれいていた。
帽子をかぶっていて、帽子からはみ出ている髪は短かった。
「あ…… すみません」
こっちに気付いたその人が、顔を上げるとそれは丸眼鏡をかけた女性だった。
「す、すみません」
「?」
「一つ目のすみません、と二つ目のすみませんじゃあ、違う者の声のようじゃな」




