(18)
「聞こえてますか?」
「車を向かわせる。それがきたら、お前はそれを運転して帰ってこい」
「車を残したまま?」
「そうだ」
「はい。待ちます」
俺は、車の中で井上が戻って来ると思いながら、待ち続けた。
一時間経ったか、たたない頃、スマフォに電話がかかってきた。
表示は、オフィスの者だった。
「君島です」
「車を持って来ました。交代しましょう」
歩いてくる男が見えた。笹木だった。
俺はすれ違いざま、鍵を交換して笹木が乗ってきたセダンに乗り込んだ。
井上がどこかで爆睡しているだけなら、ここに戻ってきて笹木と出会うだろう。
俺はそのまま駐車場を後にし、都心へ向かう道を進んだ。
渋滞に巻き込まれながら、オフィスに着くと、伊藤さんが駆け寄ってきた。
「お前、ちょっとこっち来い」
伊藤さんは厳しい表情で、俺の腕を引いた。
そのまま応接室へ入ると、伊藤さんはおいてあったノートパソコンを操作しはじめた。
俺はその画面を見て、嫌な気持ちになった。
「なんすか、これ?」
「それはこっちが聞きたい。これは、さっき笹木から送ってもらった車載カメラのデータだ」
「……」
「井上が運転したんじゃなかったのか?」
「そのはずですが?」
「お前はこの映像の意味が分かっていてそういうのか? ここに出ている日時をみてそう言うのか?」
伊藤さんは、あきれたような顔をしている。
「……いや、俺、運転していないですよ。だって、車は井上の方が上手いから……」
「まだ、他の誰にも言ってない。笹木にも口止めしている。正直に言ってみろ」
「信じてください」
「何を信じるんだ! 井上がいなくなったのは、湖の近くで、じゃないのか? お前は、加茂の家の近くに来てから井上がいなくなったように言うが」
「た、たしかに、帰りに車に乗ってからは、井上と会話をしていないんです」
「……」
伊藤さんは右手をポケットに突っ込み、立ち上がった。
俺の腕をとると、腕にバンドのようなものをはめた。
「あっ!」
このバンドの仕組みは知っている。
GPS位置情報を送り続ける機能があるのだ。調査員の行動記録を取るのに用いるもので、かなりの時間バッテリーが持つ。
「井上もそうだが、佐東も失踪したんじゃなくて、お前が関係している可能性もあるんじゃないのか?」
「そんな……」
「警察に突き出すのは待ってやる。だから、自分で無実を証明して見せろ。佐東の行方にしろ、井上の居場所にしろ、お前が一番良くわかっているはずなんだ」
俺は腕のバンドを見つめながら、伊藤さんの言葉を聞いた。
「今は家に帰って寝ろ。今日の午後から、お前の仕事は井上と佐東の捜索だ」
「……はい」
俺はうなずくしかなかった。
応接室から出るとき、おれは袖を引っ張って腕のバンドが見えないようにした。
そしてデスクに戻って日報を書き、オフィスを出た。
頭の中が真っ白になっていた。
どうして井上がいないのに気づかない。
どうして自分で運転してきたことを忘れている。
なにか病気ではないか、という考えが浮かぶ。
何度思い返しても、何度確認しなおしても、俺が湖のあたりから一人で車を運転してきたと思えない。
ハンドルを持った記憶がないのだ。
「(映像には確実に自分が運転している様子が映っていた……)」
俺は自分に言い聞かせるようにそう言った。
ということは、井上は湖で駐車中にいなくなっている。
スマフォを見ると、そう、既読になっていないのだ。
つまり、俺が山道を探索し始めたあたりから井上はスマフォを確認していない。
イコール、そのころから車にはいなかった可能性がある。
俺は山道から車に戻るまでの間、他人の姿は見ていない。
山道で、追いかけられているような気配は感じたが。
「(……いや、トイレで人の首のようなものを)」
いや、あれは壁の板の木目がそう見えただけだ。あれが人のわけはない。
だが、俺は自分の記憶を信じることができない。
これは、寝ている暇はないな、と思った。
もう一度湖に戻って自分の行動をはっきりさせることが必要だ。
誰か他に俺たちの行動を見ていなかったか、とか。
家に帰る電車に乗りながら、どこを確認するか考えた。
「(どうせ今晩は俺の調査業務はなしだ)」
軽く寝て疲れがとれたら、直接湖へ向かってみよう。
俺は自宅のある駅を降りた。
目の隅に見覚えのある女性の姿があった。
「君島!」
俺はその女性の方を向いた。
幸子だった。
「どうしたの? 君島?」
乱暴な言葉遣いだ。
「家には帰れたんだろう?」
「帰れたよ。ありがとう。だから今日はお金を返しにきた」
「いらないって言ったはずだ」
「一万円は大金だって、私の旦那が言ってた」
「は?」
いや、体格や表情から分かる年齢から、そういう配偶者の関係があってもおかしくなかった。
俺は勝手にヤリタガリの頭が弱い女性だと思い込んでいただけだ。
「どうしたの? 旦那が返してこいって言った。お礼にこれも持ってきた」
幸子は紙袋を下げていた。
俺に向かって突き出す。
「しにせのおいしいもの」
「いらねぇよ」
「君島の部屋まで行ってお礼するよ」
俺は目の前の幸子の姿に、部屋で寝たときの体、白い肌を想像していた。だが、その想像は幸子ではない。加茂の奥さんの顔だった。
「馬鹿、人妻がそんなこと……」
「この前は、何度も気持ちいいって言ったよ」
「!」
俺は慌てて幸子の口を塞いだ。
「お前アホだろ?」
ニヤニヤ笑い返してくる。




