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備忘録2 親を捨てる  作者: 小日向冬子
ふたりで生きていく
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8 越える

 その日、わたしは朝から体調があまりよくなかった。

 けれど仕事を休むほどでもなく、重い体をひきずりながらいつものように家を出て、彼と一緒に駅に向かった。


 ぎゅうぎゅう詰めの満員電車、空気が淀んだ車内。


 しばらくすると、しきりに生あくびが出はじめた。

 嫌な予感がする。


 こみあげてくる気分の悪さをなんとか噛み殺そうとしたが、一向に収まる気配がない。

 電車は急行、何駅か先まで止まらない。

 途中で下りられないと思ったら、よけいに息苦しくなった。サーッと血の気が引いていくのがわかる。

 冷や汗が噴き出してきて、視界が揺れながら遠く青ざめていく。

 貧血だ。


「大丈夫か?」


 彼の声がやけに遠くに聞こえる。


「気持ち悪い……」


 とてもではないが真っ直ぐ立ってなどいられず、顔を歪めて彼の肩に額を押し当てた。力強い胸にゆっくりと体を預け、小さくため息をつく。


「次の駅まで我慢できるか?」


 気遣わしげな瞳の色。


「ん……」


 耐えられる自信はなかったが、大丈夫。もしこのまま倒れてしまったとしても、この人がいてくれる。


 ギリギリの苦しさの中に滲む、ひそやかな甘さ。




 ところが、いよいよ意識が遠ざかり、ふっと体中の力が抜けそうになった瞬間、耳元に彼の鋭い声が飛んできた。


「こら、意地でも倒れるなよ!」



 ショックで思わず正気に返り、恐る恐る視線を上げると、目の前にあったのは怖いくらいに切羽詰まった彼の顔。




 どうして?




 次の瞬間、わたしはようやく自分がここで倒れることの意味を悟った。



 身動きもとれない満員電車。

 空いている座席もないし、かといって座りこむスペースもない。この中で崩れ落ちていくわたしを抱きとめるのは、実際ひどく難しいだろう。

 それにいったん乗客が流れ出せば、大きなうねりに彼ひとりの力で抗うことなど無理に等しい。そうなったらわたしにケガをさせてしまうかもしれないと、彼ならそこまで考えているはずだった。




 意識を手放してしまえばわたしは楽になれる。


 が、それは同時に、わたしを必死に守ろうとしてくれる彼に、どうしようもなく追い詰められた状況を突きつけることになってしまうのだ。





 そんなこと考えもせずに、丸ごと救い上げてもらうことばかりをうっとりと夢見ていた自分の幼さが、ひどく恥ずかしくなった。





 いつもそうだ。

 いつだってわたしは、自分の苦しさばかり。


 ちょっと辛くなっただけで、その状況も相手の気持ちも考えられなくなって、すぐにそこから逃げ出そうとしてしまう。



 ああそうか、最近2人がしっくりいかないのも、わたしがそんな風だからだ。

 いつまでも、彼が守ってくれるのを待っているだけだから。




 でももう、このままじゃダメだ。


 彼と生きて行きたいのなら、いいかげん大人になれ。





 電車はあと5分ほどで次の停車駅に着くだろう。

 それまで、死ぬ気で踏ん張る。



 そう覚悟を決めたわたしは、大きく息をして歯を喰いしばりながら、薄れそうになる意識を必死に繋ぎとめた。

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