43 転がり落ちていく
結婚前、わたしが精神科に通っていたころのことだ。
一度だけ、父が先生の話を聞きに来てくれたことがある。
面談を終えた担当医は感心したような口ぶりで、
「お父さんは岩のような方ですね」
と言った。
ちょっとやそっとでは動かない、どっしりと重い大きな岩だ、と。
そんな父の人生は、文字通り大岩が音を立てて坂道を転がり落ちていくように、どんどん加速しながら壊れていった。
そしてわたしたちと暮らし始めて1年もたたないうちに、昼も夜もなくただ酩酊のうちに日々を過ごすようになっていた。
「ちょっと散歩にいってくる」
足元がふらつき歩くのもやっとなのに、日に何度もそう言って出ていく父。
戻ってくれば明らかに息が酒臭い。
よく見ると、ズボンのポケットが不自然に膨らんでいる。
「食欲ないから、ごはんはいいや……」
ろれつの回らなくなった口でそう言い残して自分の部屋に引きこもり、酔いが醒めてきたころにまたふらふらと家を出ていく、一日中その繰り返しだ。
食事もろくにとらず風呂にも入らず、生気のない顔で亡者のように漂うだけの日々。
どうにかして飲酒をやめさせようと、父と兄とわたしとで何度も話し合いをした。
そのたびに父は「もう酒はやめる」と誓ったが、その舌の根も乾かぬうちに約束はあっけなく破られた。
やがて父は、明らかに酔っているのに飲んでいないとウソをつくようになった。「ちょっと具合が悪いだけだ」としらばっくれる姿に、怒りとも悲しみともつかない感情がこみ上げてくる。
あまりにも飲んでいないと言い張るので、それなら一度確かめてみようと兄とふたりでこっそり父の後をつけたことがある。
田んぼの中の一本道を通ってひとけのない古い住宅街を抜け、覚束ない足取りで向かった先は酒屋の自動販売機。
物陰からこっそりようすを窺っていると、父は震える手でポケットから小銭を取り出し、ワンカップを2本買った。
そして1本をポケットにしまうとその場で残りの1本を開け、口をすぼめておいしそうにきゅーっと飲み干した。
父は空になったカップの中に金属のフタを落とし込み、前かがみの体を無理やり伸ばすようにして、よろめきながら自動販売機の上にのせた。
見るとそこには、いくつものカップが同じ角度でずらりと並べられているのだった。
その光景に、兄もわたしもことばを失った。
「母ちゃんはうまいことやったなぁ、俺が先に逝ければよかったのに……」
酔った父の口からは、ときおりぽろりとそんな本音がこぼれた。
わかっている、父は死にたがっている。
なんのために生きているのか、もうわからないのだ。
今すぐ消えてしまいたいほど、生きているのが辛いのだ。
だから飲まずにいられないのだ。
それがわかっているから、一日中見張っていることもずっと家に閉じ込めておくことも、お金を取り上げることもしたくなかった。
そんなことをしても、父の気持ちが変わらないのはわかっていた。
それではいったい、どうしたらいいというのだろう。
その答えが見つからないままに、父の状態はますますひどくなっていく。
酔ってふらふらと出歩き、道端で動けなくなって近所の人に連れられてきたことも一度や二度ではない。
転んで顎をざっくり切って血まみれで帰ってきたこともあったし、出かけたまま戻ってこなくなり、兄もわたしも会社を休んで町中を探し回ったこともあった。
仕事を終えて帰ってみたら玄関で父が倒れていて、慌てて救急車を呼んだら泥酔していただけだったなんてこともある。
ピカピカだったパールブルーの自動車も、酔ったまま運転したのだろう、自宅の廊下に突っ込んでライトにひびが入り、家の窓枠もぐにゃりとひしゃげてしまった。
さすがにこのときばかりは車のカギを取り上げざるを得なかった。
下手をしたら他人を巻き込んでしまうかもしれないのだ。
今日はいったい何が起こるのか。
毎日毎日父の飲酒に家族みんなが振り回され、気の休まる暇もなかった。




