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備忘録2 親を捨てる  作者: 小日向冬子
毒親を捨てて
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40 父とハルキ

 父の人生は、忍耐の連続だった。


 明治生まれの頑固な祖父は、百姓に学問など必要ないという古い考えの人だった。勉強好きな15歳の少年だった父は、高校進学の夢を誰にも打ち明けることすらせず、ただ黙って農家を継いだ。


 その後もずっと、人並み外れてケチで偏屈な祖父のおかげで、苦労が絶えなかった父。


 わたしが知る限り、ふたりが表立って争うことはほとんどなかった。父はいつでも表面的には祖父を立て、ないがしろにすることはなかったからだ。


 しかし晩酌のたびに横目で祖父を憎々しげに睨みつけ、酔って足元がふらついているふりをしては、


「ああ、悪い、酔っ払っちまったぁ」


 そうとぼけながら体当たりをするのだった。


 そんなとき、父の目は一瞬たりとも笑っていなかった。



 祖父への怒りや憎しみを腹の内にため込んだまま、朝早くから家族のためにと身を削るように働き続け、夜になればわずかなつまみで苦々しげに酒を呑む日々。


 その結果が、50代半ばで患った胃癌だったに違いない。



 手術で胃の3分の2を失った父は酒もたばこもきっぱりとやめ、食事にも気を遣いながら過ごすようになったが、以前のような頑強な肉体を取り戻すことはできなかった。


 ちょっと根を詰めて畑仕事をしただけで熱を出し、「俺もすっかりポンコツになっちまったな」と自嘲気味につぶやいていた暗い横顔。


 そんな父を支え、「父ちゃんの分までオレが頑張らなきゃな」と言っていた母も数年後には病に倒れてあっけなくこの世を去り、ほどなく祖父も旅立った。


 あとに残されたのは、半病人の手には余るほどの田んぼや畑、そして広すぎる家。


 祖父が亡くなるとそれらも整理せざるを得なくなり、父が生涯をかけて守ってきた田畑のほとんどは、手放すか潰して宅地になってしまった。

 最終的に農地として残せたのは、家庭菜園に毛が生えた程度の畑だけだった。




 あの夏、わたしたち親子がしばらくこの家に厄介になると決まったとき、父はその小さな畑にハルキの大好物のトウモロコシの苗を植えた。

 そして長いこと車庫でほこりをかぶっていた農作業用の軽トラックを処分し、綺麗なパールブルーの軽自動車を手に入れた。


 止まっていた父の時間が、ようやく動き出したのだ。



 トウモロコシのひげが茶色くなったから、そろそろ食べ頃のはずだよと、父が嬉しそうにハルキに告げる。

 父のそんな顔を見るのは、いったいいつ以来だろう。


 麦わら帽子にサンダルをひっかけブリキのバケツをキィキィ鳴らしながら、喜び勇んで畑にでかけていくふたりの後姿を見ているだけで顔がほころぶ。


 父はときおり真新しいパールブルーの軽自動車で、ハルキをあすなろ園まで送ってくれた。

 毎日ではないところがまた父らしい。いくら可愛い孫であっても必要以上に甘やかしてはいけない、そう考えているに違いなかった。



 まだ何の見通しも余裕もない暮らしではあったけれど、そうやって父がハルキに笑いかけるのを見ていれば、とても幸せな気持ちになれた。


 しかしそれは、決して健やかな喜びではなかった。


 愛情深い夫を得て、その子供を授かりこの手で育てながらなお、胸の奥で疼き続けている根深い自己否定感。


「自分は愛されるに足りない存在なのだ」


 いくつになっても消えない呪縛のようなその想いの根っこにあるのは、幼い頃から刻まれてきた数々の記憶だ。


 自分に向けられる父のやりきれないほど暗い視線に、「しょうがねえなぁ」という何気ない言葉に、なす術もなく傷ついた未熟で柔らかい心。



 もちろん今ではよくわかっている。

 父は不器用だっただけで、決して愛情がなかったわけではないのだと。


 けれどそれがわかったからといって、あのとき得られなかったすべてがチャラになるわけではなかった。


 傷は傷として、痛みは痛みとして残り続けてしまう。



 願いはたったひとつだけだったのに。


 『誰かこっちを見て、わたしに笑いかけて』



 その誰かとは――父だったのに。





 父がハルキに笑いかけると、幼い冬子が認めてもらえたような気持ちになった。


 おそらくわたしは無意識のうちに、ハルキを通して子どもの頃に得られなかった父の愛情を得ようとしていたのだろう。


 もしかしたらわたしは、ハルキがハルキらしく育ってくれることよりも、父に愛される「いい子」でいてくれることを願い、そのことがのちにハルキを追い詰めていったのかもしれない、と今さらながらに思うのだ。

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