38 あすなろ園
実家に転がり込んで1か月。
夫の職探しは、思うようにいかなかった。
当然と言えば当然なのだ。
何の資格もキャリアもないうえに、5年間もデスクワークから離れていたのだから。
それでも度重なる不採用通知に夫はうつむきがちになり、気がつくと背中を丸めて歩くのが癖になっていた。
ハルキは町内にある幼稚園からことごとく入園を断られた。
こんな中途半端な時期にすんなり入れてもらえるほど、どこの園も甘くはなかった。
保育園は、母親が働いていなければ入れない。
なのに子供の預け先が決まらなければ、仕事を探すこともできないという矛盾。
それでもとにかくお金を稼がなければならない。
のんびりしていられる余裕などなかった。
八方塞がりの状況を打開するために、わたしは意を決して「あすなろ園」に向かった。
「あそこはやめといたほうがいいよ、野生児になっちゃうから」
みんながそう言って眉をひそめる、得体のしれない無認可の幼稚園。
しかし可能性がある園は、もうそこしか残っていなかった。
あすなろ園は、町はずれの田んぼの向こうにひっそりと建っていた。
強い日差しが照り付ける夏の午後。
自転車を止めそっと近づいていくと、敷地の中から子どもたちのはしゃぐ声が聞こえてくる。
恐る恐るのぞきこむと、下駄箱の前の砂場に泥だらけの小さなスコップやバケツやプリンのカップが転がっている。その奥には雑草だらけの大きな築山がそびえ、裸足にビーチサンダルを履いた子どもたちが駆け上っていくのが見えた。
その顔はひとりのこらず日に焼け真っ黒で、白い歯を見せ笑っている。
今どきの子どもたち――少なくともこの1か月の間に公園で出会った子たちとは、まったく違う。のびのびと、そして生き生きとしているように見えた。
――ここは本当に、人々が言うようなひどいところなんだろうか?
そんな疑問がふと胸をよぎる。
園庭の奥に目をやると、何度も増築を繰り返しているのだろう、いくつもの古い木造の建物が迷路のようにつながっていて、その渡り廊下の机で一人の女性が何か書き物をしていた。
彼女はそっと中を覗き込んでいるわたしたち親子に気づくと、弾けるように立ち上がった。
「もしかして入園希望? どうぞどうぞ、遠慮しないでそこから入って! お名前は? 今いくつ? じゃあ、年少さんだね!」
この町に来て初めて向けられた、温かく力強い歓迎の笑顔。
その日のうちにわたしは入園を決めていた。
泥んこ遊びにクワガタ捕りにお散歩に、ナイフを使って竹とんぼを作ったり、自分の背丈ほどもある竹馬に乗ってみたり。
絵本の読み聞かせやお絵かきの時間もたくさんあった。
給食は焼き魚に採れたての野菜がたっぷりで、ゴボウの甘煮や園庭で採れたリンゴがおやつだった。
偏食の多いハルキは、最初こそ野菜だらけの皿を見て涙ぐんでいたが、卒園のときには食べれないものがほとんどないくらいだった。
ひょろひょろのマッチ棒のようだった体がぐんぐんたくましくなっていき、死んだ魚のようだった目が光を取り戻していく。
子どもをひとりの人間として尊重し、元々備わっている知恵や思いやりや生命力を引き出していくというのがあすなろ園の考え方だった。
先生もお母さんたちも、その理念に共感して集ってきた人ばかりだ。
みんなおおらかでたくましく、習い事をさせたり型通りのお行儀を教えるよりも大切なものがあることを、ちゃんと知っていた。
そしてわたしもまた、世間の評判に逆らってハルキを入園させたことで、すっかりそのひとりになったつもりでいた。
なのにどうしてだろう、彼女たちの中にいるといつも、もやもやと得体のしれない感情が沸き起こってくる。
泥だらけで思い切りはしゃぎまわったり、転んだり汚したり。
まだ帰らないと駄々をこねたり、すぐにいうことを聞かなかったり。
そんなハルキの振る舞いで、どうしようもなくかき乱されてしまう心。
わかっている。
自分もほかのママたちと同じように、子どもらしい我儘や悪戯など、どっしりと笑って受け止めてあげればいいのだと。
わかっているのに、わたしの中の何かがいつもかたくなに邪魔をする。
無理やり笑顔を作っても心が笑っていないのは、自分自身が一番よくわかっていた。
それでも園にいるときはまだよかった。
周りの大らかな雰囲気に流されて、なんとか寛容にふるまうことができた。
しかしハルキとふたりになると、途端に口うるさく厳しい自分が顔を出す。
きちんとお行儀よくしなさい。
使ったものはちゃんと片付けて。
帰ったらまずうがいと手洗いでしょ?
よそ見してるからこぼすんだよ。
頼むからこれ以上面倒かけないで、
ママだって大変なんだから。
のびのびと育てたいと願っているはずなのに、わたしの口から出るのは命令とダメ出しばかり。
相変わらず、わが子にどう話しかければいいのか、どうやって接したらいいのか、果てはどうしたら笑いかけることができるのかさえ、わからないのだった。
ハルキとふたりきりになると、緊張さえしてしまう自分。
わたし、おかしい。
けれどそれでも周囲から見れば、ただの熱心でまじめな母親なのだ。
心配する必要などないと、不安を吐露した相手は口をそろえてそう言った。
その反応は、ますますわたしを孤独にさせた。
わたしがハルキに与えている毒が何なのか、誰も言い当ててはくれない。
わたしは正体のわからない不安と焦燥感を、抱え続けていくしかなかった。




