36 再出発
自転車の後ろにハルキを乗せて、何かに追われるようにペダルをこいだ日々。
訪れるはずの「いつか」を夢に見ながら。
ようやくその日がやってくる。
やっと、義父から離れられる。
わたしたちの人生を、始めることができる。
湧き上がる喜びを抑えつけ、自分に言い聞かせた。
決して悟られてはならない、義父を捨てるつもりだとは。
油断してはならない、確かな自由を握りしめるまでは。
作り笑顔の裏で苦しいほどに息をひそめながら、わたしたちは荷物をまとめ引っ越しの準備を進めた。
東京に行くと言ったものの実際には、お金も何の伝手もない。
結局はぎりぎり都内に通勤できるわたしの実家に、頭を下げて厄介になるよりほかなかった。
話を聞き終わった父の返事は、
「ああ、わかった」
とただひと言。
感情の読み取れないその声は、わたしを詰っているように聞こえた。
やはり夫の両親と同居している姉は、すでに10年以上女中のような扱いを受けながらも黙々と耐え忍んでいた。母だって、嫁としての苦労を嘗め尽くして死んでいったのだ。
それに比べたらたった5年で音を上げるなんて情けない、そんな風に言われている気がしてならなかった。
――わたしはやっぱり父にとって、不本意な娘でしかないのだ。
忘れかけていた重苦しい感情が、再び頭をもたげてくる。
借金に追われながら、気難しい義父母と過ごした5年間。
思えばそこにあったのは、とてもわかりやすい形の苦労だった。
自分勝手で浪費家の父親のせいで、苦労の絶えない息子夫婦。
誰が見ても、悪いのは義父だ。
同情されこそすれ、責められることなどなかった。
そう、自分自身にさえも。
誰かを責めている間は、自分を責めなくても済む。
それが正当な怒りであるほどに。
だから義父の要求に疲れ果て、綱渡りの家計に神経をすり減らしている間、わたしはわたしの内面を見ずにいられた。
すべてを義父のせいにして、けなげな嫁というポジションに安住していればよかったのだ。
そしていつしか思い込んでいた、諸悪の根源である義父と離れさえすれば幸せが近づいてくると。
けれど本当の苦しみは、外からやってくるものではない。
そんなものでは、なかった。
別れ際に義父から、餞別の1万円と手紙を渡された。
手紙には、「ハルキをいい子に育ててくれ」とあった。
中身を一瞥した夫が、皮肉な笑みを浮かべる。
もういい、そんなこともこれで最後だ。
これからは自分たちのために生きていく。
今後のためにとなんとか手に入れた中古車に、荷物をぎっしり詰め込んだ。
ママ友たちも、別れを惜しんで見送りに来てくれた。
「お盆には帰ってくるんやろ?」
「ああ」
義父の問いかけに淡々と答えながら、夫は車のエンジンをかける。
「いろいろ、ありがとうね」
「ううん。元気でね、落ち着いたら手紙ちょうだい」
「うん」
「ハルキくん、絶対また遊びに来てよ」
「うん、絶対来るよぉ」
そう答えながら、泣きべそのハルキ。
たくさんの想いに支えられながら、車はゆっくりと走り出した。
友達が、義父が、あの家が小さく遠ざかっていく。
さようなら、みんな。
さようなら、お義父さん。
淋しいけれどもう何も悔いはない、ここでやり残したことはない。
大通りに出ると、夫はアクセルを踏み込んだ。
そして、取りすがる何者かを断ち切るように、自分たちの運命を切り開こうとするかのように、ひたすら前へ前へと車を走らせ続けた。
数時間高速を走り続けて、湖に面したサービスエリアで車を止めた。
「ちょっと休憩しよう」
湖と言えどもかなり大きく、岸には波が打ち寄せている。
湖面を渡る風が頬に心地よい。
空に向かって開けていくようなその光景に、緊張していた心がほぐれていく。
待ち望んでいたこの瞬間。
自由だ。
わたしたちはもう自由なのだ。
開放感に浮き立つわたしに彼が言う。
「ソフトクリーム、食べよう」
視線の先にあったのは、ベリーソースとナッツのかかった1個300円のソフトクリーム。
「……いいの?」
こんな贅沢して。
全部を言葉にはしなかったけれど、わたしの戸惑いを夫は知り尽くしている。
「いいから、食べな」
「え、パパは?」
「俺は、いいから。ハルキとふたりで食べなよ」
そう言って微笑む夫の姿に、胸がきゅっと締め付けられる。
湖からの風に髪をなびかせながら、促されるままベンチに座ってハルキとソフトクリームを分け合った。
「……おいしい」
べそべそと泣いていたハルキに、ようやく笑顔が浮かぶ。
ごめんね、辛い思いをさせて。
でも、その代わり絶対君を守るから。
心の中で誓うわたしの目の前で、午後の陽射しがキラキラと波立つ湖面に反射し続けていた。




