31 義母の旅立ち
すでに脳に癌が転移していた義母は、病院から生きて帰ってくることはできなかった。
目の焦点も合わず会話をすることもかなわないままベッドの上で発作を繰り返し、それでも数週間を耐えたのちに、とうとう息を引き取った。
義母を看取ったあと義父は、何度も狂犬のように医者に食ってかかった。
「あんなに元気になってたのに、おかしいやろ!」
と。
けれど義父をずっと見てきたわたしには、それが悲しみのあまり口を衝いて出たことばだとは思えなかった。
義父はただ、苦しむ妻から逃げ続けた自分を認めたくなくて、医者に責任転嫁しているだけ。そんな風に思えて仕方がないのだった。
ゆっくりと悲しむ暇もないままに、慌ただしく葬儀の準備が進む。
どうしてもこの家から送り出したいという義父の希望で、1階の仕事場に祭壇が設けられた。
田舎から通夜にかけつけてくれた大勢の親戚のために、ありったけの布団を用意し食事の準備に走り回る。
一方義父と夫は、もらったばかりの香典袋からせっせと中身を引き出していた。そうしなければお坊さんへのお布施も払えなかった。
告別式には、夜通し車を走らせて父と兄も来てくれた。
父と目が合った瞬間、張り詰めていた気持ちが緩んで思わず熱いものが込み上げてきた。最後までゆっくりことばを交わす暇もなかったけれど、その顔を見るだけで、義母の死を悼む以上にわたしを心配してくれていることが痛いほどに伝わってきた。
ようやく無事に義母を送り出し潮が引くように親戚たちが帰って行くと、それを待っていたかのように、滅多に病気をしたことのないハルキが高熱を出した。
それから何週間も病院通いは終わらず、この子にどれほど我慢をさせていたのかと思うとたまらない気持ちになった。
そしてもうひとつ、わたしたちを待っていたのは、さらなる借金の山だった。
父から追加で借りたお金の大半は、返済に充てる前に義母の治療費に消えていた。
葬式代も結局香典だけでは足りず、車を売ってなんとかしのいだ。
そんな状態でも義父は、平気で何十万もする豪華な仏壇を購入し、七日ごとに坊さんを呼んではお経をあげさせた。そのたびに面白いほどあっけなく万札が飛んでいく。
さらにお墓も必要だといって、相談もなくその寺の本堂に近い墓地を購入してしまった。
しかし、義父が見栄を張って供養の体裁を整えようとすればするほどに、わたしたちの気持ちは冷めていった。
そんなことをするくらいなら、どうして生きているときにもっと一緒にいてやらなかったのか。不安と淋しさでいっぱいだったであろうたくさんの夜、義母に寄り添ってあげなかったのか。
ほどなく義父は、また毎晩ふらふらと遊び歩くようになった。
その姿をみかけるたびに、置き去りにされた義母の怒りと悲しみに満ちた声が思い出され、やりきれない気持ちになった。
妻に苦労をかけ続け死なせてしまった後悔が義父を真人間にしてくれるのではあるまいかという微かな期待は、もろくも打ち砕かれた。
結局義父は、自分はなにひとつ痛まないままで、愛する妻を亡くした可哀そうな夫を演じようとしているに過ぎなかった。
当然のように返済はまた滞り始め、あとはもう家を手放すしか手がなかった。
あと十数年、義父が75歳になるまで続く毎月30万円の住宅ローン。
ほかにも借金はまだあったが、一番負担の大きいそれさえなくなれば、細々と4人で暮らしていけないことはないだろう。
けれど、義父は頑としてその提案を受け入れようとしなかった。
おそらくあの家は、思い出や見栄やプライドがぎっしり詰まった義父の人生そのものだったに違いない。
けれどここまでの状態になってなおそれに執着することは、息子や孫の人生までも犠牲にすることにほかならなかった。
そうしてわたしたち家族は、八方塞がりの先が見えない借金地獄に、あっという間に逆戻りしていったのだった。




