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備忘録2 親を捨てる  作者: 小日向冬子
修復不可能
30/57

30 義母の病

 夫が資格試験の勉強を始めて数カ月、本格的な夏が訪れようとしていた。


 このころ義母は、ひどく疲れたようすを見せるようになっていた。元気そうにふるまってはいるが、あきらかに以前より食欲が落ち顔色もすぐれない。


 ある日とうとう目の前の食事に一切手をつけないまま箸を置き、がっくりと肩を落としてつぶやいた。


「なんやら喉につかえてるみたいで、どうにも入っていかんのだわ……」


 これはもう疲れているというレベルではないと、慌てて近所の内科に連れて行った。


 紹介された大きな病院で告げられた病名は、肺癌。

 かなり進行しており、場所も心臓にほど近く、もはや手術はできないという。




 入院先は車で40分ほどかかる場所にあり、仕事の合間を縫ってはみんなで会いに行った。


 病室の少し手前から、夫がハルキをけしかける。


「ほら、ばあちゃんが待ってるよ!」


 促されるがままにパタパタとスリッパの音を立て、嬉しそうに義母のもとに走って行くハルキ。その足音を、義母はどれほど心待ちにしていたことだろう。


 お昼はデイルームで、持参のお弁当をみんなで一緒に囲んだ。それも、少しでも長く家族一緒に過ごせるようにという夫の配慮だった。



 告知はしなかった。

 気が強いようで実はとても怖がりの義母にはきっと耐えられないだろうからと。


 けれどのちに、義母の知り合いが教えてくれた。


「お義母さん、ご自分で病気のことわかってたと思いますよ。入院前に会った時、『息子がね、よくなったらハワイに連れてってやるって言うんだわ。急にみんな優しくなって、わたしきっともうダメなんやろね』って、淋しそうに笑ってましたから」


 十数年前、一度だけ行ったことがあるというハワイ。義母にとってそれは夢のような時間だったらしく、以前からときおり写真を引っ張り出して懐かしそうに眺めては、「いつかまた行きたいわぁ」とつぶやいていたのだ。


 果たされることのない約束とわかりながらも、そう言わずにはいられなかった夫。

 それを知りながらも気づかぬふりで笑顔を見せ、お洒落なバンダナを頭に巻いて果敢に病気と闘っていた義母。


 それでも病気は確実に、義母の体とわたしたちの未来を蝕んでいった。


 夫はもはや勉強どころではなくなり、連日仕事場に立ち続けた。が、それでも雑事や見舞いに時間を取られて作業はなかなかはかどらず、売り上げはどんどん落ちていく。


 家計はますます厳しくなり、限られた予算でのお弁当作りにも難儀した。長引く入院生活のいら立ちもあってか、義母の口からは同じメニューばかりで飽きたと不満が漏れ出した。


 先のない戦いに誰もが疲れ切ったころに、治療はようやく区切りを迎え義母は家に帰ってきた。すっかりやせてはしまったが一時期よりもだいぶ顔にも生気が戻り、ひょっとしたらこのままよくなっていくのではないかと思えるほどだった。


 が、そんな希望的観測に釘を刺すように医者は言った。


「すでに脳に転移が見られます。いずれなんらかの症状がでてくるでしょう」



 完治して退院したわけではないことなど、義母自身もわかっていたはずだった。退院から日が経つにつれ床から起き上がれない日が増えていく。やがて口にできるのは流動食とアイスクリームだけになった。


 なのにその義母を残して義父は毎晩のように遊びに出かけてしまう。


 出ていこうとする義父をなじる義母の声。

 その場限りの言い訳を口にしながらするりと逃げていく義父。


 義母は日に日に不安定になり、無邪気にはしゃぐハルキの声がうるさいと怒鳴りつけるようになった。


 終わりを待つだけのような重苦しい日々が過ぎていく。


 そんなある日、義母は突然泡を吹いて倒れた。

 脳に転移した癌のせいで、てんかんの発作が起こったのだ。


 体を痙攣させ血走った目を見開いた義母。


 救急車を待つ間中、苦悶に満ちた表情で彼女がすがりつくように見つめていたのは、義父ではなくて、息子である夫のほうだった。

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