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備忘録2 親を捨てる  作者: 小日向冬子
修復不可能
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28 やりきれない日々

 繁忙期が終わって仕事が暇になると、夫はよくハルキを空港の近くの大きな公園に連れていってくれた。

 乗り物が好きなハルキは、間近で見る飛行機に大喜びだった。


 けれどそんなときも、昼食は必ず作って家で食べた。なぜなら、もしわたしたちが外食などすれば、


「それなら俺たちも贅沢していいだろう」


 そう言って義父が散財のタガをはずすだろうことがわかっていたからだ。


 だからあの家に住んでいる間は、マクドナルドにも行ったことがない。一個数百円もするハンバーガーが、当時のわたしたちにとっては手の出せない贅沢品だったせいもある。


 当たり前のようにその袋を手にしている親子連れを見かけるだけで、羨ましくて仕方がなかった。




 義父の浪費癖は相変わらずだった。

 そしてまた義母の感覚も、どこかずれていた。

 ふたりの言動はしばしば数千万円の借金の当事者だとはとても思えず、そのことがいつもわたしたち夫婦を苦しめた。



 秋が深まると、わたしはハルキのために余り毛糸で手袋を編み始めた。

 ハルキのお昼寝中や夜寝かしつけたあとの時間、そんなちょっとした合間を縫ってはせっせと編み針を動かした。

 わたしにとってそれは、満ち足りたひとときでもあった。お金がなくてもわが子にしてやれることはある、そのことをしみじみと感じることができたからだ。


 ところが、いよいよもう少しで片方が編み上がるというときのことだった。

 その日、午前中は仕事がないからと買い物にでかけていた義父母が、帰ってくるなり嬉しそうにハルキのところにやってきた。


「ハルキ! いいもんがあるぞ! ほら、あったかそうやろ?」


 義母が手にしていたのは、市販の子ども用手袋だった。


 機械編みのきれいにそろった編み目。

 手編みではとうていかなわない凝ったデザイン。


「冬子ちゃん忙しいから、いつもああして編むのも大変やろうと思ってな。な、これ、いいやろ?」


 何の屈託もない義母の、満面の笑顔。


 わたしは内心の動揺を悟られないよう無理やり笑って言った。


「本当、可愛いわ。お義母さん、ありがとうね。ハルキ、よかったねー」


 自分の発する言葉がどこか遠くに聞こえた。

 怒りとも悲しみともつかない感情が胸の中に湧き上がってくる。

 それを必死に抑えつけながら、笑顔の仮面を被り続けた。



 やがてみんなが仕事場に戻り、ハルキがお昼寝をすると、わたしは編みかけの手袋を紙袋から取り出した。


「どうして、どうして……!」


 とめどなく溢れる涙にまみれながら、何かに取り憑かれたかのようにパラパラと編み目をほどき続けた。


 どんどん短くなっていく手袋。

 ひと目ひと目に込めてきた想いが蘇ってきてはまた熱い涙が湧き上がる。


 わかってる。

 あの人には何ひとつ悪気なんてなかったのだ。

 わかってるけど。


 それでも思ってしまうのだ、どうしてあの人たちには伝わらないのだろう、と。

 わたしたちがいつもどんな想いで、日々を積み重ねているのかが。

 どうしてこうも容易く、精一杯の気持ちを踏みにじることができるのだろう。


 泣いて、泣いて、泣き濡れたわたしの手の中に残ったのは、縮れてぐちゃぐちゃになった古毛糸。


 目の前では、何も知らずにハルキがすやすやと眠っている。


 ふくよかな頬。

 甘い寝息。

 安心しきった、無力な幼子。



 ああ、この涙を、大人同士の争いを、ハルキに見せるわけにはいかない。


 そう思ってハッとした。


 きっと夫も同じなのだ。


 彼こそ嫌というほどこんな想いを味わってきたに違いなかった。そしてその辛さをわたしたちに見せてはならないと、ひとりでこらえてきたに違いないのだ。


 それならばわたしも、この涙は胸の中にしまっておこう。

 わたしが辛い想いをしたと知れば彼は苦しむだろう。

 これ以上、彼の重荷を増やしてはならない。


 わたしは何度も涙を拭うと、毛糸をもう一度きっちり巻いて玉にして紙袋に戻した。そして目の届かない押し入れの段ボール箱の奥に、しっかりとしまい込んだ。




 人間はそうそう変わるものではない。

 当然のことながら義父母と同居していた5年間、同じようなことが何度となく繰り返された。


 ささやかなクリスマスツリーを作ろうと厚紙や折り紙やモールを集めている最中に義父母が買ってきたのは、ハルキの背丈ほどもある本物のモミの木ときらびやかなオーナメントのフルセットだった。


 折に触れ高価なものを買い与えては孫のごきげんをとろうとする義父母。


 戦隊ヒーローに夢中だったハルキのために、借金まみれのわが家に一体一万円近くもする合体ロボットが増えていく。


 その裏で、銀行に頭を下げサラ金のATMをいくつも巡り、這いずるように取引先に足を運んで綱渡りの返済を続けながら義父母へのこづかいを捻出している夫。



「俺達からは、ハルキに何も買ってあげなくてもいいよな?」


 3歳の誕生日、新しいロボットに大喜びのハルキを見ながら淋しそうにつぶやいた彼の声は、十数年経った今でも忘れられない。

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