17 父の孤独
――お盆と正月には必ず帰ってきます。
それは、結婚したときに彼が父と交わした約束だった。
だからその年の暮れも、大きなお腹で彼と一緒に里帰りした。
わたしが家を出てから、実家は目に見えて荒んでいった。
乱雑に積まれたチラシの束。
居間のテレビにうっすらと積もった埃。
テーブルの上に出しっぱなしの食器。
シミだらけの薄汚れた座布団。
天井の隅にはクモの巣が張り、長い廊下は艶を失いざらついていた。
仕事に忙殺される兄と、家事に不慣れな父。
女手のない暮らしはこうも容易くしぼんでしまう。
それならせめて自分がいる間だけでもと、埃をはらい部屋を整え、父の好きな料理を作りおいた。
新しい年を迎え、4人でおせちと雑煮を囲む。
来年はここに新しい命が増えるのだ。
父への負い目も先の不安も抱えたままだったけれど、彼と酒を酌み交わす父の表情はいつになく柔らかで、それだけで思わず胸がいっぱいになった。
あっという間に三が日も終わり、別れの日がやってきた。
朝早くからごそごそと動き回り、野菜に米に商品券と、抱えきれないほどの手土産を用意してくれた父。
けれどいざ出発の段となると、頑として部屋から出てこようとしなかった。
「俺はここでいいや。気をつけて帰れな……」
障子の向こうから聞こえる声が、痛々しく震えている。
そっとのぞいてみると、父は顔を歪めてうつむき、背中を丸めて必死に涙をこらえていた。
幼いころから無口で怖くて近寄り難かった父。
けれど今のわたしは知っている。
本当はただ口下手で不器用で、抱えきれないほどの愛情をどう表現していいかわからなかっただけなのだと。
わかってる。いつだって自分のことは後回し、何ひとつ贅沢もせず家族のために汗にまみれ泥にまみれて黙々と働き続けてきたことを。
なのにどうしてこの人は老いてなお、こんな淋しい日々を送らなければならないのだろう。
妻には先立たれ、嫁も孫も去っていき、息子は遅くまで帰ってこない。
ゆっくりと滅んでいこうとするこの家で、ひとり過ごす時間はどれほど虚しいことか。
帰る道すがら、父の孤独がしくしくと胸に迫り、たまらず体を震わせ泣いた。
引き裂かれるような痛みに嗚咽し続けるわたしの頭を、彼がそっと撫でてくれた。
そう、わたしにはこの人がいる。
けれど父の横には、誰もいないのだ――。
その日からわたしは、日に日に膨らむお腹にむかってそっと語りかけるようになった。
どうかじいちゃんの淋しいこころを満たしてあげられる子になってね。
じいちゃんに喜びを、希望を、生きる力を与えてあげてね。
そのときのわたしは、まだ気がついてはいなかった。
父に喜びを与えられる子どもになりたかったのは、本当はわたし自身だったのだと。
――こっちを見て、笑って。
幼い頃からただそれだけをどれほど願ってきたことだろう。
けれどわたしを見る父の瞳は、やはり暗く沈鬱で。
大人になり、それが決してわたしを嫌っているせいではなく、父自身が抱えてきた鬱屈のせいだと知ってからも、幼いころから受け続けた痛みが消えることはなかった。
それはいくつになっても、そして愛する人ができてもなお、日常の中で唐突に頭をもたげては胸を苦しくさせるのだ。
わたしはその見果てぬ夢を、さしたる自覚もないままに、まだ見ぬ我が子に押しつけていたのだと思う。
そしておそらくそのときから、わたしと息子の関係は、静かに歪みはじめていたのだ。




