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備忘録2 親を捨てる  作者: 小日向冬子
借金まみれの日々
15/57

15 親といえども

 子どもができたことを告げると、義父も義母も「初孫だ」と大喜びし、「無理したらいかんよ」と口々に優しいことばをかけてくれた。


 とはいえ家事も仕事も待ってはくれない。ごはんが炊ける匂いに吐き気をもよおしながら食事を作り、商品にラベルを付け続けた。


 彼はいつも、そんなわたしを少しでも休ませようとしてくれた。


「あとは俺がやっとくから」


 毎晩遅くまで灯りが消えない仕事場。

 自分だって、くたくたに疲れているはずなのに。


 ひとり部屋で横になっていると、いいようのない淋しさと不安に押しつぶされそうになり、知らず涙がにじむ。


「こんなママでごめんね、もっと強くならなきゃダメだよね」


 そっとお腹に手をあてながら、まだ見ぬわが子に語りかけた。





 しかしその子が生まれてくる前に、上向きだった売り上げに翳りが見えてきた。


 不景気で衣料品の売れ行きが伸び悩み、人件費の安い海外に工場がこぞってシフトしはじめたのだ。ただでさえ閑散期で仕事が減る時期、あっという間に返済は行き詰まった。


 とりあえず利息だけはなんとか払えているが、このままでは遅かれ早かれ限界がくる。その先に待っているのは手形の不渡り、そして自己破産。



 悩んだ末に彼が選んだのは、わたしの実家にまとまった金額を借りることだった。





 『備忘録』にも書いたが、わたしは幼い頃からずっと、自分の家は貧乏なのだと思い込んできた。そうとしか思えないような暮らしぶりだったからだ。


 が、実際は、それほど貧しいわけではなかった。


 そのことをはっきりと知ったのは彼と出会う少し前、祖父が亡くなったときだった。世間のことに疎いわたしにも、父が払った相続税がかなりの額だということはわかった。


 もちろんそれは広い農地を持っていたからで、決して自由に使えるお金があったわけではない。が、少なくとも、あそこまで惨めな暮らしをする必要などなかったはずだ。


 結局あの家では、生きている者の人生よりも、先祖代々の土地を守るほうがずっと大事なことだったのだ。


 貧乏人といじめられた子ども時代や、何の贅沢もせずに100円の野菜を売り歩き、苦労続きで生涯を終えた母のことを思うと、やり切れない気持ちになった。




 とにかく、わたしの家にそれなりの財産があることを知った彼は、だからこそ頑ななほどに自分たちだけの力で生きようとしてきた。

「本当の意味で、冬子のお父さんに信頼してもらえるようになりたいんだ」

 そう言って。



 その彼が、プライドもなにもかなぐり捨てて、父に頼ろうとしている。


 状況はそんなところまで来てしまっていたのだ。







 彼に頼まれた翌朝、実家に連絡をした。


『もしもし?』


 受話器をとった父の声が、かすかに緊張している。

 そういえばあの家にくる早朝の電話と言えば、たいてい誰かが亡くなった知らせだった。


「ごめん、わたしだけど……」


 そこまで言って、ことばに詰まった。

 喉に何かがつかえているみたいに、上手く声が出てこない。


『どうした?』


 気遣わしげな父の声色に、胸がきゅっと苦しくなる。

 怯む心を奮い立たせ、大きく息を吸い込んだ。


「あのね……お金、貸してもらえないかな……」


 ハッと息をのむ気配。

 が、次の瞬間。


『いいよ。いくらだ? いくらあればいいんだ?』


 いつもの寡黙さに似つかわしくないほど必死な声。心配な気持ちが痛いほどに伝わってきて、わたしは不意に泣きそうになる。


 どうして。

 どうしてこの人にはわかるのだろう。

 そしてどうして何も言わず、何も聞かずにすべてを受け入れようとしてくれるのだろう。


 もしかしたら、わたしはいつもこんな風に愛されてきたのだろうか――。


「に……にひゃくまん……」


 やっとの思いでそれだけ告げると、あとはもうことばにならなかった。

 気がつくとわたしは、受話器を握りしめたまま激しく嗚咽していた。


「手形が……不渡り出しそうで……」


 しゃくりあげながら必死に説明しようとするわたしに、父はただ繰り返す。


『わかった、わかったから。大丈夫だからな』


 受話器の向こうから伝わってくる父の温もりに包まれて、わたしは小さな子どもみたいに、いつまでもおんおんと泣き続けた。







 父は、そのあと電話を代わった彼にも、何ひとつ聞こうとしなかった。

 ただ、お金を振り込むから口座を教えてくれ、と。


「俺がどれほどいたたまれない気持ちかわかってるから、あえて何も聞かずにいてくれたんだと思う。本当に、すごい人だよ……」


 そういう彼の目も、赤く潤んでいた。




 かたや義父はこのときも、一切タッチしようとはしなかった。

 すべてを息子に押しつけ、いつものようにご機嫌で晩酌をする姿に、彼がずっと抱えてきた苦しみの深さが垣間見える気がした。

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