1 新しい暮らし
その部屋は、都心から電車に揺られて1時間、駅から歩いて15分、市役所の横をゆったりと流れる大きな川に面していた。
剥げかかった外壁に、錆びた階段。
シミだらけの低い天井、隣の音が筒抜けの薄い壁。
いまにも崩れ落ちそうな、家賃4万円のボロアパート。
やっとの思いで手に入れた、2人だけの城。
結婚式は、挙げなかった。
社会に出て2年目の彼と、定職につくことなく生きてきたわたしには、ほとんど蓄えがなかったから。
いや、もしあったとしても、形ばかりの式を挙げるより自分たちの将来のために使うことを選んだろう。
そんなわたしに父がそっと渡してくれた通帳と印鑑。
残高は、300万円ほどもあった。
「母ちゃんがいればな、いろいろ準備してやったんだろうけど――俺にはどうしてやったらいいのかわからないから、このまま持って行け」
目を潤ませ、震える声で父が言った。
わたしたちはそのお金を少しだけ使って、2台の自転車と布団を買った。
結婚指輪は、御徒町の問屋で買った超安物。
それでも互いがいさえすれば、それだけで充分幸せだった。
ジミ婚ということばもない時代。
わたしたちの結婚生活は、そうやって始まった。