安藤梨夏
何にもなかった。
そうだなにもなかったんなだ。
「早乙女君無視して良かったの?」
東野さんに問われても、
「誰もいなかったでしょ?」
努めて笑顔。
その笑顔に気圧されてか、元よりそこまで言う気はなかったのか、東野さんは「う、うん……」と言葉を無くす。
「チラッチラッチラッ」
「一時間目ってなんだっけ?」
「たぶん数学だとおもうよ」
「あー、睡眠学習万才」
「赤点と友達になるき?」
そんな会話をいつもしていたのだろうか。今となってはそんなこと、わからないのだが。
扉からの鬱陶しく効果音つきで見ているやつは、放っておこう。
害意がないなら、此方からは無関心だ。
「おーい……おーい……」
小声で誰かに声を掛けている。他人事に干渉するべきじゃないな。
「ねえ。あれ、無視してていいの? そろそろ心折れそうだけど」
誰かと思い、首だけで声の方向を向く。
ショートカット。それが直ぐに目にはいった。肩に触れるか否かの所で切られていて、額の左側をピンヘヤピンでとめている。
スポーツをしているらしいその体は、上半身に少し足りないところがあるが、他は徹底管理された生物かのように、綺麗なプロポーションを保っていた。
そんな安藤梨夏がそこにはいた。
「日常茶飯事だろ?」
「それもそうだね」
少しの躊躇いもなく、綺麗に即答された。
隣で遠野さんが何とも言えない、苦笑を浮かべていた。
「あ、退院おめでと」
「ありがと。祝われるくらい重症じゃなかったと思うけども」
安藤が「え、そう?」と前置きし、
「あのとき麻季がこの世が終わるってくらいのテンパりようだったから、そこまで重症のかなって」
あの時って何時? その疑問をそのまま告げる。
「まあ、あの時。だよ」
言葉を濁す。
「ちょっと用事思い出したし、行くね」
その用事は、無理矢理今作られたものだと、直感的にきずいた。
しかし、ここで色々なことを訊くのが憚られた。
教室内には複数人の生徒。聞かれたくはない。
記憶が無いことが安藤に知れても、誰にも話さないでいてくれるだろう。
だが他の奴等にお得意の噂でも流されて、特異な目を向けられても、居心地が悪い。
一瞬開きかけた口は閉じられた。
代わりに、
「かまえよーー……」
自分の席に座り、早乙女の相手をしてやることにした。