トキコ
僕が時子と会ったのは、冬の寒い公園だった。
彼女は何をするでもなくそこにたっていて、誰かに置いてきぼりにされたようにぽつんと俯いていた。
僕はそんな彼女を放っておけなくて、つい一言かけてしまった。
「寒くないですか?」
そういう僕の方も、もう二時間も待ちぼうけをくらっていて酷く寒かった。
時子は僕に驚いていたが、ふっと微笑んでこう言った。
「素敵なタイですね」
そう、僕がこの日つけていたのは特別なイタリア製の高いタイだった。なにせ、今日はクリスマスイブだったのだから。
「僕、振られちゃったみたいです」
「ふふっ、私も」
「どうですか、お互い残念記念に飲みませんか?」
「……そうですね。哀しいことは、同じ哀しみを持つ人と分かち合え――。良いですね」
時子はにこり、と笑った。白い頬、整った真っ直ぐな瞳、寒さで色をなくした唇。
時子は美人な女だった。それに少し話しただけだが、感じも良いし、とても素敵な女性に思える。そんな時子を振るなんて、何を考えているんだ、その相手の男は。
「何処に飲みに行きましょうか。きっと、どこもカップルで一杯でしょうけれど」
「じゃあいっそ、飲み屋にでも行きましょうか?」
「あはは、いいですね」
そうして、その日は時子と一緒に夜半開けまで飲み明かしたのだった。
その日から僕と時子は付き合いだした。
一緒に遊園地にも行ったし、水族館、海水浴、カップルでデートするような場所には何処にでも行った。時子はいつも笑っていたし、おしとやかな女だった。
その日から二年近くが過ぎた。
どうしてこんなことになったのか。
丁度一ヶ月前くらいから、時子は僕に内緒で病院に行くようになった。問いただしても何処の病院か教えてくれなかったし、何処か悪いのかと訊いても曖昧に返事をするだけだ。
僕は勿論彼女のことが心配だった。何処が悪いにせよ、病院に通うほどなのだ、具合が良い訳は無い。
そこで仕方なく、僕は尾行などという真似をした。
時子はその日、白いダッフルコートを着ていた。長い髪は美しくなびいていた。
後をつけると、一件の小さな病院に入っていった。入り口には滑川クリニックと書かれていた。その中に、心療内科と書かれているのを見つけた。
時子は心を病んでいたのか――?
心の病に関して、僕には偏見はない。だが偏見のある人間も未だに多い。だから、時子はその病院に通っていることを僕に言えなかったのだろうか。
きっとそうなのだろう。しかし、それは少し寂しい。彼氏なのだから、悲しみも喜びも分かち合って欲しい。
苦しみなら尚更だ。
ある日、僕は時子に君が滑川クリニックに入っていくところを偶然に見てしまった、苦しいことがあるのなら隠さずに僕にも言って欲しいと言った。
すると時子は驚愕の眼差しをして、口をわなわなと動かし、なんとこう言った。
「もう、目の前に現れないで―――!」
僕は呆然とした。
滑川クリニックのことを、そこまで知られたくなかったなんて。
「時子、誤解だよ。僕は見てしまったけれど、君をヘンな眼でみてなんていない――僕はっ」
「やめてやめてやめて、もう近づかないで――!」
そう言って時子は逃げていってしまった。
僕はずっと唖然として立ち呆けた。
それから。
時子のわけの分からない態度から、ずっと頭が離れなかった。
時子と会うことは勿論出来なくなったが、滑川クリニックに入っていくのは度々見かけた。
僕に隠さなければいけないほど、彼女は何処が悪いのだろう?
やはり精神なのか? しかし、あそこは内科もある。
では身体のナカが?
どちらにせよ、どうして教えてくれないで、あんな別れ方を……。
僕はとうとう我慢が出来なくなり、滑川クリニックに入った。
考えてみれば二年もこのクリニックに立ち入らなかったのがおかしい。
「すみません、こちらにかかっている浅葉時子の婚約者なのですが、彼女の容態についてお聞きしたくて――」
「ええと、そういうことは御家族以外には――」
「でも、婚約者ですよ? 僕はもうすぐ家族になるので」
「では家族になってからお越しになってください」
僕はしぶしぶクリニックを出た。
その後、時子が入っていくのを見かけた。
それから二時間後、僕は時子が出てくるのをずっと待っていた。
しかし時子の両親が車で到着し、わたわたと病院に入っていった。
院内は何故か騒然としている。
「あの、どうかしたんですか?」
近くに居た患者に訊いて見る。
「浅葉さんて方が、階段から落ちて意識不明ですって。これから大きな病院に運ぶところらしいわ」
「時子が……」
その日から、時子は意識不明の重体になってしまった。
その後、時子が小笠原総合病院という所に搬送されたことを知った。
集中治療室に居るらしい。
意識は戻らず。
面会も謝絶――。
「時子……」
突然襲ってきた悪夢に、僕は泣いた。
時子はもしかしてこういう事態になることを全て知っていたのではないか?
だから愛する僕に別れを告げて、病院に通い続けていたのでは?
自分がもうすぐ居なくなってしまうから……。
僕の悲しみを少しでも和らげる為に――!
時子なら在り得ない話ではない。
時子はそういう心遣いの出来る女だった。
そうなのだ。
ああ、時子……!
今すぐ会いにいってやりたい、僕は大丈夫だから、時子もがんばれと、手を握って言ってやりたい!
小笠原総合病院のロビーに、時子の両親が居た。
何か喋っている……。
「一言だけ、言ったんですって」
「何をだ……」
「徹郎がって……」
「それは……のことが……」
「ええ、……も、それのこともあって……時子……から」
所々に聴こえてくる言葉。
徹郎が……。
徹郎のことが、心配……だろうか?
時子。
倒れる時か、その後か知らないが、やっぱり僕のことを思っていてくれたのだ……。
僕はこっそりと他の入院患者を見舞う振りをして、時子の部屋を訪れた。
時子の口にはまだチューブのようなものが嵌っていて痛々しかった。
「時子……時子……僕だよ、徹郎だよ……」
ぴくり、と動いたような気がした。
気のせいだろうか。
「時子……時子……僕だよ、僕だよ、僕だよ……」
一時間、ずっと話し掛け続けた。
その間、二三回時子はぴくりと動いたように思えた。
それから半年経ち、時子は実家に戻された。
意識は不明のままだった。
時子の実家は一戸建てではなく、二階建てで二階は人に貸していると言う。
時子の両親と懇意ではない為に、時子に会うことが困難になってしまった。
この半年の間、人の目を忍んでは時子に会いに行っていたのに――。
きっと、僕からの語り掛けを続ければいつか時子は目覚めるはずだ。
僕があきらめたら、時子の人生は終わりだ。
そんなこんなで、時子の実家の周りをうろうろしていた。
「ちょっと、あんた。なにここら辺うろうろしてんのよ!」
上の階の住民が罵声を飛ばす。
「そうよっ! 迷惑よっ! 邪魔、ウザイ、目障りっ! 浅葉さんだって迷惑がってんのよっ!」
「浅葉さんって……時子の御両親が?」
「そうよっ! あんた何なのよ! とにかくもう金輪際顔見せないで頂戴っ!」
ああ、時子の両親も分かっていないのか。
僕と時子がどんなに繋がりあっていたか。
愛し合っていたか。
それをこんな変な若者に邪魔されて――。
「僕と時子の愛を阻むのかっ――!」
があ――――っと走っていった時には、もう遅かった。
近くにあった灯油缶で女の頭をがしがし殴っていた。
「ひっ――!!」
もう一人の女も逃げようとする。
そこを、階段を一気に駆け下りて首根っこを掴む。
「馬鹿にしやがってこのメス豚が―――!!」
がしっがしっがしっ!!!!
女たちの息は途絶えた。
「時子……今行くから、待っていろ……!」
浅葉家に入ると、老夫婦が驚いた顔をして突っ立っていた。
「今の騒ぎは……あなたは……まさか徹郎さん……?」
「時子は何処だ!! 時子を救えるのは僕だけだと何故分からないんだっ!!」
「ああ、あなたっ逃げて――! 時子を守って――!」
母親が目の前に飛び出してくる。
がしん、がしん、がしん。
もう、時子と僕の仲を邪魔する奴は肉親であろうと敵だ。
「あ、あ、鈴子……」
がしん、がしん、がしん。
逃げ惑う父親の後頭部を一撃、二撃、三撃……。
そして奥の部屋で、眠りの森の美女みたいに眠っている時子を発見した。
「時子……ようやく、ようやく会えたね……」
すると、時子がぼやっと目を開けた。
「すごい音が……したわ……お父さん、お母さん……どこ……」
「時子、僕だよ、徹郎だよ……!」
「て、つ、ろ、う…………」
いややあああああああああ!!!!!
凄まじい叫び声。
ああ、うるさいな。
「どうしたんだ、時子、僕だよ」
「いや、いや、いやあ近づかないでぇ――!! 変態っ」
「時子……?」
「もう、何度言ったら分かるのよ? あのクリスマスの時だけたまたま一緒に飲んだけど、それ以外に付き合う気なんて無いんだってば!! それを何年も何年もつきまとって! 私も精神ぼろぼろで病院にかかるほどよ! それに貴方が病院に来たって聞いたら、もう本当に嫌になっちゃって投身自殺しちゃったわよ! 生憎生きているけれどね!」
もう、時子が何を言っているのか分からない。
僕達は色んな所に一緒に行って――
「その後できた彼とのデートにまでついてきたりして! 変態よ!」
愛し合って――
「お陰で彼とは別れることになるしっ!」
お互い、思いやっていて――
「本当に、貴方みたいな疫病神に会ったせいでさんざん……」
がしんっ、がしんっ、がしんっ……。
暗い箱の中で、僕は考える。
時子を失った僕。
永遠の眠りについた時子。
病気だと言うコトを最期まで隠しとおして、僕を守った時子。
そうだ、天国の時子に手紙を書こう。
僕は時子を一生忘れないと。
時子の婚約者は永遠に僕だけだと―――。




