プレゼント
食事中に何となくつけていたテレビドラマの中で、主人公がヒロインに何度も愛の言葉を囁いていた。こういうのは照れくさいけれど、言われる側は純粋に嬉しいものだと美沙子は思う。
「ねえ、竜二もたまには愛してるくらい言えないの?」
「愛してるなんて、ただの概念だよ。そもそも日本には、愛なんて言葉は元々なかったんだ。昔の歌人は色恋沙汰もたくさん詠んでるけど、愛してるなんて誰も使ってないんだよ。ほら、このお坊さんだって高名だけど使ってないだろ」
そう言うと竜二は見ていた本をひっくり返して美沙子に向けた。彼女は怒っているというよりは、ほとんど呆れている。そんな話はしていないのだ。それでも話題を元に戻すと、「話を逸らすな」とわけのわからない正論を投げつけてくるので、諦めてつきあう。いつものことだ。
「誰よ、このお坊さん」
「昔の歌人だよ。平安や鎌倉に生きた人々は、愛なんて言葉を使わなくても、ちゃんと相手に想いを伝えている」
そう言いながらも、決して相手の目を見ない。食事中でも大概は本を片手にしている竜二の顔は真剣そのものだ。美沙子はよっぽど鏡を見せてやりたいと思った。
「そう。竜二も見習ってほしいわね」
「それにしても、美沙子の作るレバニラ炒めはやっぱ美味いな。世界で一番なんじゃないか」
機嫌をとることを知らない竜二がたまに発するその類の言葉が、お世辞でないことを美沙子は十分に理解していた。これだからこいつは汚いのだ。いつも絶妙なタイミングで放り込んでくる。
「で、誕生日は何がほしいんだ?」
今度の日曜は美沙子の誕生日だった。毎年この時期になると聞かれる常套句だ。おおよその予算は暗黙の了解で決まっているので、いつも具体的な品を言うのだが、今回は少し意地悪をしてやりたくなった。
「幸せがほしい」
竜二の頭の上に疑問符が並ぶ。
「幸せなんて、ただの概念でだな」
「幸せがほしい。ちょっとじゃなくて、たくさん。両手いっぱいの幸せがほしい。概念でもいいよ」
被せ気味にもう一発言い放った。
「たくさんの幸せね…。わかった、考える」
絶対わかっていない。彼にはわかりっこないのだ。それでも意外と早く了承したので、少し驚いた。まあどうせ思いつかないだろうから、降参したら具体的なリクエストを出してあげよう。
翌日、ソファーで寛ぎながら、竜二は日課の読書にふけっていた。無類の本好きで週に三冊は新たに購入してくる。本棚はすぐにいっぱいになり、ついに一部屋は本のみで埋め尽くされてしまった。しかも単行本だろうが文庫本だろうが、必ずカバーをかけてもらうので、棚にしまうとまるで区別がつかない。この日も新しく買ってきた本を読んでいた。
その隣で美沙子はクスクスとマンガを観ていたのだが、突然、竜二がパタンと本を閉じて彼女の方を向いたので、気に障ったのかと思い「ごめん」と謝った。
「決まったよ。プレゼント」
「え?」
決められないと高をくくっていた美沙子は完全に出し抜かれた気分になった。同時に高揚感が内側からあふれてくる。この時点で相当サプライズだ。
「ニラにするよ」
「は?」
竜二の口から出た単語の意味がよくわからない。もしかしたら、そういう名前の商品があるのだろうか。ポカンとしていると言葉を続けてきた。
「ニラだよ、ニラ。レバニラ炒めの『ニラ』」
どうやら本当にあの「ニラ」らしい。彼の表情からは冗談の色を伺うことはできなかった。それどころか少年のように目を輝かせている。美沙子はリアクションに困った。同時に、せっかく高まっていた気持ちが一気に逆走を始めた。
きっと世界一だと称賛するレバニラ炒めを食べることが幸せだと言いたいのだろう。それ自体は嫌なことではないのだけれど「たくさんの」と言えるほどの幸せか甚だ疑問だし、第一作るのは私ではないか。
「これだ、これしかないな」
何度も自分に言い聞かせるように頷いている。もういいや。せいぜい美味しそうなニラを選んできてくれよ。美沙子は寛大な心で受け止めるフリをして諦めていた。
誕生日当日、昼日中から家でゴロゴロしている。相変わらず竜二は本を読んでいた。ニラを買いに行く様子はまだない。だが、心なしか朝から落ち着かない気がする。さてはすでに冷蔵庫に入っているのかと美沙子は疑った。
すると不意にインターホンの音が響く。竜二が一瞬受話器を見たが、すぐに視線を手元の本に戻した。美沙子はテレビを観ていたので「出て」と頼んでみたが、「俺だって本を読んでいる」とカウンターを喰らっただけだった。こんな日くらいやさしくできないのかこの男は。
不承不承受話器を上げて返事をすると、宅配便だった。チラッと竜二の方を見たが、目を合わそうとしない。ニラだ。絶対ニラだ。さては産地直送のちょっと高めのニラとか。「腐っても鯛」を逆の意味で使いたい。
玄関を開けると、配達のお兄さんが立っていた。その手に持っていたのは大きめの段ボール箱、ではなく、花束だった。
「え?」
理解できずにいると、お兄さんが口を開いた。
「竜二様から美沙子様への贈りものです」
白くて小さい可愛らしい花だった。それが数え切れないくらいたくさん束ねられている。信じられない。竜二が花を贈ってくれたのだ。サインをして扉を閉めると、目に涙を溜めながら小走りでリビングに戻った。
「ちょっと、何がニラよ。ずるいじゃない」
先程までのそわそわした様子とは打って変わり、竜二が笑みを浮かべる。
「いや、それはニラだよ」
「は?」
せっかく感動していたのに、真顔で返してしまった。
「それね、ニラの花なんだ」
「ぶっ」
ほとんど吹き出すように笑った。言われてみれば、確かに独特の匂いを発している。あまりに可笑しくて、立っていられずにその場に崩れ落ちてしまった。つい数十秒前までの涙は、もはや別の涙に変化している。それでも素敵なシーンで流れる涙はどれも美しい。
竜二は照れくさそうに頭を掻いた。
「ほら、やっぱり笑ってるときが一番幸せだろ」
「そうだね。でもこれ食べられるのかな」
「食うのかよ」
珍しく鋭い返しをする竜二が面白くてまたゲラゲラと笑う。この男はたまにこういうことをするから汚いのだ。
数日前に竜二が買ってきたのは花言葉に関する本だった。ブックカバーがしてあるからきっと美沙子は一生気づかないだろう。だけど、竜二は満足そうな顔をしていた。