1-9 イノ
熱に浮かされて、イノはぼーっと天井を見上げていた。
寝たり起きたり。
そのたびに外から入る光が減って、部屋が暗くなる。
「マドレ、もっとこっちに来て……」
イノの短い腕をのばして、寝台脇の椅子に置かれていた人形を抱き寄せる。
人と狐の中間のような姿の人形――マドレは、今日も抱きしめるとふんわりと柔らかく暖かかった。
いつも帰りが遅い父親の代わりに慰めてくれる、お母さんの人形。
「おそくなってもいいよって言ったわよ? けど、少しおそすぎないかしら」
口先をとがらせて文句を言うと、もっともだねと言うように人形が頷く。
マドレと二人で留守番をする事が多いイノ。身についた一人遊びは、本当に人形が生きているかのように動かせるようになってしまったほどだ。
それでも、病気の日くらいは少し早く帰ってきても、きっと神樹様も怒らないだろうと思うのだ。
イノにお母さんはいない。魔法使いとして、たくさんの人を守っているらしい。遠いところにいるから、しばらく会えないよとお父さんに聞いていた。
遠いところというのはどこなのか。聞いてみたけれど、イノのお父さんは悲しそうな顔で笑うばかりだった。
お父さんに聞かれた事がある。
もっと早く帰ってこれるようなお仕事に変えた方がいいかなと。
それに反対したのはイノ自身だ。学校の先生は大切なお仕事だから、やめたらだめよと。マドレにも説得を手伝ってもらって言い諭したのだ。
今日も同じだ。熱が出て寝込んだイノを見て『俺も休むぞ!』と騒いでいてたので、お仕事が終わるまで帰っちゃダメと追い出したのだ。
とはいえ、やっぱりこんな日は早く帰ってきてくれたら嬉しいな、とも思う。
「わがままはダメ、だよね」
憂鬱なため息を漏らす。
そんなため息が妙に耳に響いて、そこでようやく気がついた。異様なほど、周囲の音がしなくなっていると。
重い体で窓の近くまで歩き、椅子に乗って外を伺う。
石畳の街路にも、斜め向かいの雑貨屋さんにも、誰一人として姿が無かった。
どうしたんだろう、これも夢なのかなと思うが、頬をつねってもしっかり痛い。
イノはようやく、まずい事になっていると理解し始めた。
いよいよ恐ろしくなってきたところで、いつか聞いた警報が遠くから響く。
『この警報が聞こえたら、お父さんの学校に避難すること。そうしないと"終わりの夜"がやってきて、イノみたいなかわいい子を食べちゃうんだ』
普段は優しくてお茶目なお父さんが、精一杯怖い顔で教えてくれた言葉を思い出す。
"終わりの夜"に見つかった子供は、生きたまま食べられてとっても痛い思いをするらしい。
「マドレ、いっしょにヒナンしよう」
大切なお母さんを抱きしめて決心する。
コートを羽織って、家の鍵とお財布をポケットに入れる。
ほかに持って行くのは魔法の杖だ。
イノのお母さんが『送って来て』くれた杖を振るって、足下を照らせるように光の魔法を使う。
「だいじょうぶ、こわくない」
学校まで行ければ、お父さんが守ってくれる。
家を出て、鍵を閉めたら路地に走り込む。
"終わりの夜"は体が大きい。そこで、逃げやすいように、町の大通り以外は意図的に狭く作られている。
教えられた通りにそんな路地を足早に進む。
「おとうさん」
熱のせいでふらつく体がうとましい。
けれど、きっとお父さんはイノの事を心配しているだろう。
そう思うと、少しだけ頑張ろうという気持ちが強くなった。
もうすぐ学校に着ける。
何度か避難訓練や見学に通った道を思い出しつつ、イノは息を乱して先を急ぐ。
いくら計画的に作った町でも、町の大動脈とも言える広い通りを完全に避けて避難経路を作る事は難しい。避難先になる大型施設こそ、大通りを必要とするからだ。
もし、そんな大通りで"終わりの夜"に見つかったらどうなるか。
想像するだけでも恐ろしくて、夜の暗さにまで追い立てられるようにイノは走り出す。
しかし、群からはぐれた小さな獲物を、怪異が見逃すはずもない。
「あ、あぁ……っ!」
足がすくむ。
呼吸が詰まる。
幼いイノの目からみて、ソレはまさに、怖いモノから怖い部分を千切って集めたような姿をしていた。
怪異の胴体は獅子かもしれない。隆々と盛り上がった筋肉はあくまでしなやかに。それでいて不吉なまでの力強さを漂わせていた。
頭はワニのソレに似ていた。ナイフの様に鋭利な牙が、これ見よがしに並んで生えている。かみつかれれば何本がイノの手足に、体に突き刺さるのか。
特に、特に恐ろしいのがその瞳だ。
苦しませてやろう。痛めつけるべきだ。呪ってやる。
悪意の固まりがあった。イノには名状しがたい、禍々しい炎を宿した瞳がイノを睨みつける。
足下が沈み込んだように揺れる。
体勢を落とした怪物が、一際強く石畳を踏みしめる。
イノが、獲物に飛びかかる猫の様だと現実逃避したのは一瞬だった。他でもない、その獲物が自分自身だと分かっていた。
「た、助け――」
人間なんかすりつぶせそうな轟音が響く。
怪物は全身の筋肉に溜めた力を解き放ち、イノのいた路地ごと吹き飛ばすように飛び込んだのだ。
路地を作る家が砕かれ、土煙を上げて崩れ落ちる。
イノは無事だった。間一髪でよろけた結果、その驚異から逃れえていた。
しかし、そんな偶然が続くはずもない。
今度こそ逃げだそうとしたところで、さらに周囲の路地を瓦礫で埋めながら、ニ体の怪異が飛び込んでくる。
振り返れば、逃げようとした路地も瓦礫で埋まりきっていて、逃げられる見込みなんかどこにもなくなっていた。
「――や、や」
呼吸が速くなる。
頭が真っ白になる。
手に持っていた魔法の杖を振り回す。
逃げ道なんかなくて、もう、あとは。