1-10 "終わりの夜"との対峙
街から人が消えていた。
夜闇を払う明かりも絶えて、遠くから死人の拍手のような銃撃の音が響いてくる。
暗く染まった路地は、黄泉路に続くかのように暗く長かった。
レゾの走る音だけが規則的に響き、荒い呼吸音が、長い手を首にかけるように迫ってくる。
無力でいたくなかった。
けれど、限りなく無力のレゾは、恐怖を押し殺して闇の向こうを睨みつけて、震える足で石畳を蹴る。
嫌な予感がしていた。
体中に絡みついてくる重たい危機感が、急げ急げと嘲笑うのだ。
恩師の娘――イノちゃんという可愛らしい女の子とは何度か会った事がある。父親がベタベタくっつくのに文句を言いながら、嬉しそうにしていたのが印象的だった。
幸せそうだった。
お父さんがいれば、娘がいれば、それだけで良いと伝わってくるような笑顔だった。
そんな小さな幸福さえ守れないなんて、悲しい事だ。
レゾは絶対に嫌だった。
だから、夕方まで魔法の練習で酷使した体を叱りつけて、ただ走る。
街は未だに平穏を取り戻してはいない。つい少し前にも、"終わりの夜"が街のどこかを破壊した音が響いてきていた。
人間と違い、あの怪異は視界に依らず人を見つけて殺そうとする。
街の地図の上に墨液を垂らして広げるようなものだ。一秒ごとに地図はどす黒く塗りつぶされて、被害者は確実に増えていく。
その中に、イノちゃんが含まれる可能性も増えていく。
自分にもっと魔力があればと苛立ちが募る。
夕方まで魔法を使っていたせいで、魔力の残りはごく僅かだ。帰りにイノちゃんを背負って飛行する事を考えると、どんなにもどかしくても今は使えない。
早く見つけて、先生のところに連れて行こう。そして、トゥラには何でもなかっただろうと怒られて、何とか謝って、アモレさんには秘密にしていてもらうのだ。
しかし、たどりついたイノちゃんがいるはずの家は、誰もいなかった。
呼びかけても、扉を叩いても応えがない。
飛行の魔法で二階にある子供部屋らしい窓を覗いたが、ベッドはもぬけの空だった。
「イノちゃん! 助けにきたよ!!」
大きな声で助けに来たことを告げる。
それでも、どこか遠くから"終わりの夜"が暴れる音と、それに対抗する銃声しか聞こえなかった。
その銃声が、だんだんと街壁から街の中心近くへ近づいている気がした。
既に逃げた後なのだろうか。
もし避難しているなら、避難区域の問題で学校へ向かうだろう。
自分がこの場所から学校に向かうならと考えて、追いかける。
ただ、どうしても嫌な予感が拭えない。
気のせいだろう。しかし、そう言い切るには不吉すぎる。
「どうか……」
飛行の魔法を使い、空から路地を覗くように学校へ向かって移動する。
そんな時、レゾの視界の片隅で細く弱々しい光が、空に向かって立ち上った。
「救難信号……?」
高度を落とし、家の屋根を走るように蹴って勢いをつける。節約していた魔力もありったけ注ぎ込んで空を駆ける。
「イノちゃん!」
何度も訓練した雷の攻撃魔法で"終わりの夜"の一匹を牽制しつつ、レゾはイノを守るように飛び込んだ。
イノちゃんの手が握っていた魔法の杖が明滅を繰り返し、光を失う。
先ほどの弱々しい救難信号の光は、不完全な魔法だったらしい。
不完全な魔法が基本的に発動しない。しかし、偶発的に発動してしまう時には、杖に大きな負担がかかるのだ。
「お母さんの杖……っ」
イノちゃんの悲痛な声に慰めて上げたくなるが、それは帰ってからにするしかない。
怪異の突撃によって、そこは小さな広場になっていた。
瓦礫で囲まれたこの空間は意図して作ったのか、魔法を使わずに逃げるには難しそうだ。
周囲を囲んで様子をうかがう怪異を伺いながら、レゾはイノに横顔で微笑みかける。
「助けに来たよ」
慌ててイノちゃんが杖から顔を上げる。
「えっと、お父さんの生徒さんの……」
「レゾだよ」
名前までは覚えていなかったらしい、イノちゃんは肩を落として申し訳なさそうにする。そんな様子があまりに可愛らしくて、レゾはこんな時なのに少し笑ってしまった。
笑った事で、狭まっていた視界を取り戻す。
『戦闘は目的、障害、解決手段の三点で指針を立てろ』
警衛隊の訓練に参加した後に、アモレから教えられた指針を思い出す。
目的はレゾとアモレの生存確保だ。
障害は小型鰐獅子種の"終わりの夜が"三頭と、逃げ道を塞く瓦礫。戦ったりできないイノの保護も障害の一種だ。
レゾが思いついた解決手段は三つ。攻撃魔法で怪異か瓦礫を排除する。飛行魔法で逃走する。救援を呼ぶ。
攻撃は無駄だろう。
二年前には小隊単位で対応していた"終わりの夜"が三体。
対して自分は一人きりだ。
トゥラには暴走娘と怒られるレゾだが、誰よりも自分が無力な事は忘れていない。
できそうな事だと思えば挑戦するが、無理な事を覆せるとは思えない。
ならば逃走しよう。
とはいえ、飛行魔法を使うにはいささか魔力が心許ない。
「ほんと、私って魔力低すぎ」
トゥラの冗談を思い出して、ムリにでも笑う。
勢いで飛び込んだのは良いが、二人まとめて踏みつぶされる状況が目に浮かぶ。
それでも、レゾが諦めればイノちゃんまで巻き込む事になる。
それだけは絶対に避けたかった。
とりあえず、救難信号は打ち上げておく。
派手な音と赤い光が空に向かって上り、現在位置を警衛隊に知らせる。
逃げ切る事ができても、どうせ"終わりの夜"は倒すべきなので無駄足にはならない。
手早く飛行魔法を組み立てようとするレゾ。
しかし、次の瞬間には逃走を察した怪異が突撃してくる。
慌てて魔法を放棄し、イノを抱えて横に飛び退いた。
魔法を使おうとする。突撃される。魔法を放棄して回避する。
二度、三度、四度。
怪異とレゾで遊んでいる様にも見えるが、そうではない。
猫は獲物が危険だと判断すれば、危険が無くなるまでいたぶる習性を持つ。
目の前の怪異も、頭は鰐だが体は獅子――猫の仲間ということで、そうした性質があるのだろう。
レゾは自分一人なら踊りながらでも魔法を使える。
しかし、回避のたびにイノを抱えるなら、魔法は中断せざるをえない。
イノを狙う事でレゾの行動を封殺できると、怪異達は確認したのだ。
未だ成長途中のレゾだ。子供を抱えて延々と回避を続けられるはずがない。
見る間に息が上がり、発動を阻止された魔法から魔力が奪われる。
魔法に挑戦するだけ魔力を無くし、挑戦しなければ死ぬのを待つのと変わらない。
「レゾさん……」
「大丈夫、だから」
言える言葉はそれしかない。
大丈夫なわけがなくても。
『魔力不足の魔法師は、仲間を殺す』
ああ、そうだ。
魔法が使えなければ、ただの十四歳だ。子供で、無力だ。
それでも、今まで積み上げた努力の分だけ、ほんの少しなら何かができるような気がしていた。
気がしていただけだった。
レゾがくじけそうになるのに併せて、怪異達がさらに活発に攻撃するようになる。
今攻めるべきだと、その瞳に宿る憎悪で見透かしたように。
「くっ……」
避ける。避ける。避け損なう。
「レゾさんっ!」
「大丈夫!」
答える声は悲鳴も同じだ。
わき腹を裂かれて、痛みのあまり泣きたくなる。
助けたいだけ。
笑顔でいて欲しいだけ。
無力な自分を捨てたかっただけ。
それが、そんなにも罪なのか。
怪異が突撃する。
回避のためにイノを抱えて飛ぶだけで、傷口が軋んで悲鳴が上がる。
「――――っっ!!」
膝から力が抜けて崩れ落ちる。
立ち上がらないと。
逃げないと。
けれど、力の抜けた体は動くことを拒む。
そして、そんな二人にトドメを刺そうと"終わりの夜"は包囲を狭めて歩み寄り、
「あーあー、呆れてモノが言えねーよ」
轟と、炎が怪異を包み込む。
「お人好しもいい加減にしろ、ってな」
「トゥラ!!」
瓦礫から飛び降りたトゥラが、レゾ達をかばうように"終わりの夜"の前に立つ。
愛用の長杖をくるりと回して、精一杯に余裕を見せる。
炎が消えて、その向こうでは"終わりの夜"が平然と身構えていた。
攻撃魔法としては温度が低すぎたらしい。
「トゥラ、その魔法って」
「料理屋さんは火力が命ってな」
「生活用の魔法じゃん!」
レゾが叫んでトゥラが笑う。
「攻撃魔法なんか習ってねえからさ、まあ時間稼ぎくらいは……」
驚異であると優先度を切り替えたのだろう、"終わりの夜"はこぞってトゥラを狙って飛びかかる。
これ以上時間をかけたらまずいと判断したのだろう、怪異の突撃がレゾの時よりも無造作に、しかし激しく変わる。
「くそっ、時間稼ぎも難しいか」
トゥラの言う通りだ。このままでは少し足を滑らせるだけでお終いだろう。
「トゥラ! 魔力を!」
「好きなだけ持ってけ!」
トゥラの周囲から、燐光をまとった粒子が浮かび上がる。
魔力量が下から二番目のレゾとは違い、トゥラのそれは中の上。
さらに、救難信号を見て走ってきただけのトゥラは、夕方から比べればそれなりに回復できていた。
しかし、一匹が分散してレゾを先に殺してしまおうと向かって来る。
「レゾさん!」
イノが逃げてと叫ぶ。
「大丈夫」
心強い味方が隣にいる。
それに、たかが一匹だ。
鋼さえ切り裂くような怪異の爪がレゾを狙う。
一振りされるごとにレゾの服は切れ込みを増やし、服を赤く染める。
それでも、踊れる程度の余裕があれば十分だった。
「♪掲げよう、折れた剣でも」
レゾの『詠唱(歌声)』が響く。
高く、広く、力強く。
そしてその声は、一人だけではない。
「♪守りたいと願う心が、燃えている限り」
二人で何度も繰り返した歌。
倒れるほどに踊り続けた振り付け。
それは、どんなに追いつめられた状況でも二人に力を与える。
そして、それは二人だけではない。
見ていただけのイノも祈るように目を閉じて、魔力を解き放つ。
「お願いっ!」
「♪この歌が、立ち向かう背中をずっと」
レゾの体力なんて、限界をとうに超えている。
体中が傷だらけで、痛くて、疲れて、倒れたくなる。
それでも――諦めるなんて、絶対に嫌だ。
レゾとトゥラは視線だけで合図を交わし、限界まで魔力を込める。
二人だったから覚えられた魔法。
発動を見計らい、トゥラがレゾに駆け寄る。
「♪ずっと支え続けるから」
薄布の様な防壁が、三人と怪異の間に現れ隔てる。
その身一つで家や街路を砕くような怪異と比べて、あまりにもその加護は儚い姿だ。
腕の一振りでも千切られて消えてしまうだろう。
「おい、レゾ!」
トゥラが焦ったように叫ぶ。
しかし、レゾは笑って踵を打ち鳴らす。
闇を揺らす音。
それだけで、足下の魔法陣が周囲の魔力を引き込んで、新たな障壁を形成する。
腕を振るえば、くるりと回れば――。
十重に、二十重に――。
それは、星の光を集めたような華となる。
人類を恨み、憎むのが"終わりの夜"なら――、
それは人を愛し、見守る『守りの意志』の集積によって作られた月だった。
――■■■■■■■■■!!!
怪異が叫ぶ。
獣のうなり声を金属や植物が真似したような、冒涜的な鳴き声が周囲を揺らす。
その太い腕が振り抜かれるたびに、突進が繰り返されるたびに、障壁が弾け飛ぶ。
しかし、弾け飛ぶのと同等の早さで、レゾが新たな障壁を作り出す。
「戦争は数である。ということで、質は諦めて数を揃えられるように改造してみた」
レゾがどやっと胸を張る。
トゥラはぐっと拳を握ってその頭を本気で叩き、レゾの首を絞める。
「このマッド! だからって本番で初めての魔法を試すなよ?!」
「ちょ、苦しい、キケン! まだ障壁足りてない!!」
トゥラが舌打ちをしてレゾを解放する。
周囲の魔力を吸収し、何度でも障壁を生成する魔法陣。
これで一安心、――とはならなかった。
「レゾさん、あの、だんだん減って……」
「ごめん、ちょっと、話せない」
手を叩く。杖で魔法陣を補修する。
速度を上げて、必死に障壁を積み上げるレゾ。
しかし、ここに来て体力と気力の限界が迫っていた。
レゾのでっちあげた魔法は、障壁の魔法を内側に取り込んで、その発動を代理で行うという多層構造になっている。
それは食事をするときに、食器を木の棒で挟み、その木の棒を操る事で食事をとろうとするような行為だ。
あまりに効率が悪く、神経をすり減らす繊細な操作を要求する魔法になっていた。
この魔法でなければ守れなかったとはいえ、それでも余りに難易度が高い。
「レゾ……」
「レゾさん、がんばって」
二人の声を背中に受けて、三頭の怪異が放つ重圧を押しとどめる。
それでも、反撃手段が無い以上、障壁はすり減らされていく。
「くそ、やっぱりダメか」
トゥラが悔しげに地面を殴る。
「まだ」
しかし、
「まだ、諦めちゃ、だめだよ」
レゾは諦めない。
「武器もない、魔力もそろそろ無くなる、障壁も削られた、他になにが」
「それは」
わかっている。
もう、怪異の牙は目の前だ。
答えなんてない。
ただ、諦めたくない。諦めて欲しくない。それだけだった。
それでも、最後の障壁が破られる。
「ちっ、アタシが囮になる。二人は」
「その必要はないのじゃよ」
空から降ってきた声に顔を上げると、そこには――、
「アイドル……」
上空に描かれた魔法陣。その中心から長大な光の槍が飛び出していく。
小銃弾では子揺るぎもしない"終わりの夜"の肉体を、それは容易く貫いた。
レゾ達の周りにいた三頭も例外ではない。
精密狙撃のような射撃を受けて、頭を、腹を打ち抜かれ、崩れ落ちる。
「救援部隊である。間に合ってよかったのじゃ」
独立儀式巫術大隊――アイドルの制服を着た奇妙な口調の童女が、偉そうに胸を張って三人の前に降りてきた。
またまた遅くなってすみません。
五月三日分の投稿です。
四日目の分もきちんと投稿します。(><)