1-1 怪異
気がついた時、少女は水の中にいた。
もしくは、水の中に落ちた事で、目が覚めたような気がする。
慌てて呼吸を止める。早く、水の上に出ないと。
水面も水底も見ることができない。本当に水の中なのか?
汚泥の様に黒く、暗い液体だ。少女が水をかこうと手を伸ばすが、指先さえ満足に見えない。
「っ……」
思わず言葉があふれ出す。「助けて! 誰かっ!」と。
声は出ず、口の中におぞましい液体が流れ込む。
液体は優しい位に苦く、吐きそうなほど甘く、舌を痺れさせる。
これは何なのか。なんでこんな事になっているのか。
――こんなハズじゃ、なかったのに。
混乱の中で想いはグルグルと回る。限界が近づく。
もう、苦しくて息が続かない。
体は無意識で暴れ続ける。しかし、心はゆっくりと冷めて「終わっても良いんだ」と落ち着き始める。
少女はゆっくりと、その絶望に全てをゆだねようとした。
死んでしまえばいい。そうすれば一瞬だ。
苦しみも終わる。悲しみも感傷もいらなくなる。終わるだけだ。
けれどその瞬間、どこか遠くから光が射し込んだ。
少女はイヤだと首を振る。なんでと泣きたくなる。
まだ諦めたらいけないのか。
歯を食いしばって、少女は水をかき分けて進む。
諦めてしまった方が楽だろう。その光が『出口』なのかも分からない。
ただ、どうしても、手を伸ばさなければいけない気がした。
気がつくと、少女は息を荒げながら石畳の上に座り込んでいた。
明かりの薄い、路地のように狭い通路らしい。
アレは何だったのか。手で触れば、白い簡素なワンピースも、少し癖のある茶色い髪も濡れていないと分かる。
いや、後頭部から何かが逃避を濡らしている。おそるおそる触ると、鈍い痛みで小さな悲鳴が出て、指先に血が付いた。どうやら、頭を打ったらしい。
「こぶかな、ハゲたりしないといいけど……」
何が会ったのか。思いだそうとして、違和感を抱く。
ココはどこなのか。なぜ自分はここにいるのか。
まるで思い出せなくなっていた。
慌てて見回した周囲は、漆喰とレンガで作られた町並みだ。
あまり見慣れたものでは無いと感じて、違和感を抱く。やはり記憶が出てこない。
「名前は、生まれた場所は、両親は、……」
どうなっているのかと天を仰ぐ。すると、そこには赤い光で照らされた夜を背景に、無数の煙が空を覆っていた。火事だろうか。いや、そんな規模ではない。
「街ごと、燃えてるの?」
少しずつ混乱が収まってくると、耳に音が入るようになる。
手のひらの堅い部分を打ち合わせた拍手のような音。銃声だ。
一つや二つじゃない。遠くからも近くからも、散発的に響いている。
ゆっくりと立ち上がる。身長は近くの家の窓さえ覗けないほど低い。
でも大丈夫、足は動く。きっと、走る事もできる。なら何かはできる。
命の危険を肌で感じて、少女は逃げ道を探すことにした。
じっとしていて、誰かが優しく助けに来てくれるとは思えなかった。
路地を出て辺りを見回し、少女はソレを見つけた。
最初は悪趣味な銅像だと思った。怪物の姿。
鈍重そうには見えないが、少女の倍はありそうな身長だ。頑強な男の体の上に、犬の頭を乗せた悪趣味な怪異。
分厚い肩を上下させていなければ、少女はきっと『物』であることを疑えなかっただろう。
ありえない。あまりに現実感がないと、笑い出しそうに口元がひきつる。
想像する。もし、アレに頭から噛みつかれたら?
きっと自分の頼りない体は、胴体の真ん中だって咬み千切られてしまう。
殴られたら、それだけで何本も骨が折れるはずだ。
少女は体をこわばらせ、逃げるしかないと後ずさる。足下にも気をつけて、そろりそろりとバレないように。
しかし、何を察してか銅像はぐるりと首を巡らせた。
その闇色の目が少女の視線をたどり、少女自身を見つけだす。
獲物を見つけたと笑う代わりに、黒い瞳には赤い光が灯った。
まるで発狂だ。一瞬で殺意をたぎらせて、怪異は少女に向かって走り出す。
少女は一心不乱に走り出す。
死にたくない!
頭の中はそれだけでいっぱいだった。
怪物は広い路地なら少女の倍ほども速度を出せる。
ただ逃げては敵うはずがないと、少女は狭い路地を選んで飛び込む。
どうだと振り返れば、身を屈めて壁を砕きながら追いかけてきた。
急に曲がれないらしい事だけが救いかと、少女は心の中で泣く。
「誰かっ!」
次々と路地に飛び込みながら、叫ぶ。
誰でも良い。銃声の方に向かって走る。敵か見方かなんて分からない。
ただ、銃を使うなら人だろう。怪物も獣も、銃なんて物は使わない。
そして、少女は路地に導かれて広い道路へ飛び出した。
あの怪物にかかれば、こんな場所では一瞬で捕まるに違いない。慌てて、次の逃げ場を探す。
しかし、怪物の悪意は的確だった。
「っぁあああああああああっ!」
少女が叫ぶ。肺が空気を押し出して悲鳴になる。
怪物は、少女を追いかけながら砕いていた通路の壁を一山掴んで、散弾のように投げつけた。
その内一つが、少女の足を砕いていた。
走っていた勢いのまま、少女が体を路面にぶつける。
それでも、這いつくばって怪物から距離を取ろうとする。
理屈ではない。逃げろと本能が少女に命令していた。
だが、走ってさえ逃げられない怪物を相手に、その抵抗は余りに弱い。
いったい、なんでこんな事になってる?
溺れて死にかけた。目が覚めたら記憶が無かった。銃声におびえて、逃げようとしたら怪物にまで追いかけられた。
いったいどんな悪事をしたら、こんな目に遭わないといけないのか。
少女を食い殺そうと怪物が迫る。
少女は、最後の抵抗として怪物をにらみつける。
「諦めないから」
私は絶対に諦めない。お腹の中ででも暴れてやる。
息を荒げながら、少女は強く心に決めて、威嚇する様に睨む。
反応はない。当然だ。怪物なのだ。
大きな口を開いて、少女を食い殺そうとする。
生き物とは違うのか、生温い吐息などは感じられなかった。